>>その2
「報知」を通じての牧野の貢献
1938年8月、矢野涼花は次のように書いている。
「布哇報知は常に在留同胞の味方となり、財閥と権力も眼中になく、如何なる難局や至艱(しかん)の問題に対しても、敢然として思ふまゝの意見を吐露(とろ)し、一歩も譲りしことなきは、牧野社長平生(へいぜい)の主義主張であつて、一時は社会から誤解を受うくることもあるも、断々乎(こ)として理想に向かって邁進し、遂(つい)には世人をして之を推服せしむるのであるが、之が即ち牧野氏の主義であり、布哇報知の鉄則である。此主義は布哇報知創刊当時より今日に至るまで終始一貫して少しの揺るぎないものである」
この許言は「ハワイ報知」のファイルをたどってみると、全くその通りで、決して過大に賞揚したものではない。
前記の数珠つなぎ結婚式の廃止に始まった「報知」の活動は、数え上げると切りがないほどである。
主なものだけを挙げても
一、 1917年、本願寺系日本語学校の日本語教師として着任した5人の教師が上陸拒否になり、今村恵猛・本願寺総長を説いて告訴させ、ついに上陸許可を取りつけ、以後、日本語教師導入の道を開いた。
一、 第一次世界大戦に従事した日本人兵士たちの市民権取得に非常な努力を方無絵、400人余りの人々が市民権を得た。
一、 小沢孝雄帰化訴訟に厳しい批判をし、その軽挙をいましめた。
一、 1916年の桟橋ストで、労働組合に加入した日本人38人のために、組合員2,000人がストライキに突入したことから、プランテーション労働者の組織化と、人種間の連携を強く訴えるようになり、同時に労働問題を資本家対労働者の対立というパターンでとらえる論説を展開するようになった。
一、 1919年には、プランテーションの日本人労働者の組織化と、フィリピン人労働者との連携を強く訴え、組織を強化し、積立金を増加していけば、増給要求なども、ストライキなどの強硬手段をへなくても実現すると強力な議論を展開した。
一、 これを受けて1919年末、日本人労働団体連盟が組織されたが、一気にストに走ろうとするのを、牧野以下は懸命に阻止しようとしたが果たさず、スト突入となった。
一、 スト突入後は、ストに協力したのだが、同時に連盟幹部の暴走、不用意な動きを批判し、また不当な調停にも反対、批判を加えた。そのため、ストを通じて、「報知」は非常な苦境に立たされた。しかし、スト惨敗後、世の中が平穏化するとともに、報知の対応はことごとく人々の認めるところとなった。
一、 1919年頃から日本語学校に対する圧力が強まり、とどまる所を知らぬかのように次々に規制が発令され、1922年秋、牧野の唱導により、日本語学校取締法の憲法違反を主軸とする提訴が発足した。
一、 日本国総領事や、いわゆる良識派の人々の妨害を排除して提訴は進められ、ついに1927年、連邦最高裁で勝訴の判決を得て日本語学校存続の道を開いた。
一、 1928年9月、福永寛(ゆたか)が白人少年を誘拐し、これを殺した事件が発生した。裁判は短時日の間に終了し、事件から一ヵ月後、死刑の判決となった。牧野は、最終的に死刑はまぬがれないとしても、せめて十分審理を尽くした裁判を受けさせてやりたい、尽くすべき手段は尽くしてやりたいとして、精神異常を理由として再審手続きをとり、控訴裁、最高裁と上告して敗訴すると、今度減刑嘆願書を提出した。ジャッド知事は正義人道の名においてこれを拒否、福永の死刑は1929年10月執行された。
一、 1931年9月、アラモアナで海軍士官の妻の輪姦事件が発生、5人の青年(うち二人は日系人)が容疑者として逮捕され、裁判中、32年1月、容疑者の一人が、被害者の夫の海軍士官らにより、誘拐、殺害された、いわゆるマッシー事件が発生した。(この事件は後、容疑者は間違い逮捕で無罪釈放され、輪姦そのものも否定された)。
ところが、誘拐、殺人の海軍士官ら4人は有罪となり、10年の体刑に処せられたのに、ジャッド知事は、海軍の圧力に屈して、4人を知事官房に招いて茶菓を共して1時間歓談、特赦してしまった。
人々は福永事件との対比において、余りにも大きな差異に驚き、改めてハワイにおける人種差別のひどさと、ハワイ社会の二重構造の実態を思い知らされた。
こうした牧野及び「ハワイ報知」の尽力は、創刊号に揚げた「本社の主義」の最初のところに書かれた「ハワイ全県下に在留する日本人の利権を伸張せんが為には全力を傾注するをじせざるなり」という信条を実際に紙面を通じて行ったものだった。
牧野には、日米条約に盛り込まれた在米日本人の権利、あるいは米国憲法に含まれる個人の権利に従って、ハワイにおける日本人に加えられた規制、抑圧を排除し、在ハワイ日本人が享受できる権利と自由を守ろうとすることに全力投球したのであった。したがって、牧野は理由なくして一度も、米国政府ないしハワイ県政府と事を構えたことはなかったし、事を構えた場合には、どの場合でも、必ずそこには、日本人に対する不当な取扱い、あるいは意図的な権利の侵害があったのである。
不幸して、牧野が強く主張する事件では、そのほとんどの場合、マキキ協会の奥村多喜衛牧師、「日布時事」の相賀安太郎社長、及び毛利伊賀医師に代表される一段の人々の反対があり、時には日本国総領事までこの人々と協力して、不必要に事件を混乱させ、対立感情を作り出し、ハワイ日本人の進展に強いブレーキがかけられた。
もし、牧野が存在せず、あるいは存在しても敢然と支配勢力に挑戦せず、在ハワイ日本人のリーダーシップが、奥村、相賀、毛利たちの手に握られ、彼らの意のままに動かされた場合を考えると、果たして今日の日系人の活躍やハワイの開かれた社会が実現したかどうかも疑わしくなる。
ハワイの歴史のうち、1900年の米布合併から、19595年の州昇格、それに続く、開かれた社会作りに至る、二つの大きな転換期の間をつなぐものとして、牧野金三郎が「ハワイ報知」を率いて砂糖資本とその支配する政治権力に対抗して、敢然とちょうせんした数々の仕事は、もっと高く評価されなければならない。ハワイの開かれた社会作りとは、実は、牧野が主張し、挑戦した個々の事件が再発しないようにすることだったのである。
もう一つ、牧野の仕事として忘れてはならないことは、ハワイ生まれの日系人が、市民として胸を張って生きていけるようにと、繰り返し激励し続けたことである。これは、創刊号の「本社の主義」の中で、すでに次のように示されたところをそのまま実行したことだった。
「これらハワイ生まれたる同胞児童にむかつて、米国内に生ずる各方面の重要問題を知悉(ちしつ)せしめ、米国の政治及び社会制度に精通せしめ、彼らが遺憾なく市民たるの資格と権利を活用するに止まらず、さらに進みて思慮あり、品性あり、徳義ある愛国的米国市民たらんことを切望するものなり、これ吾人の主要なる目的のいちなるなり」
不幸にして、ハワイの社会は日系人が素直に米国市民として成長することを、あらゆる面で妨害したし、一方、日系人側も、その運命を開拓することに消極的だった。
このため「ハワイ報知」は、「若い日系人が白人の兄弟たちを真正面からにらみつけて、『そこを退け』と命ずる」ようなるべきことを力説して止まなかった。
(「ハワイ報知」は社説や記事で必要なものは、最初から英訳して本誌に掲載した。その後、1924年には英文姉妹紙として、「ザ・ビー」紙を別途に発行、1925年 には本誌と抱き合せの英文欄として継続、さらに1929年には、「ザ・セクション」の名を廃して、「報知」英文欄として6ページ建英字紙へと拡大した。)
現在すでに老境に達した日系人の先輩たちの中には、「報知」英文欄により、刺激を受け、勇気づけられた思い出を語る人々は随分多い。
*本稿は、ハワイ報知創立75周年を記念して発行されたものです。
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