ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2009/4/29/kenjinkai/

広島県人会とヒロケンを通して経験したこと

私の父、司(つかさ)は広島県出身の一世で、1960年に渡米しました。父は、アメリカへの到着と同時に広島県人会のメンバーとなり、以来、積極的 に県人会の活動に参加し続けています。私には男兄弟が2人と妹が1人いますが、私たちが子供だった70年代から80年代にかけて、父は毎年恒例の県人会ピ クニックに私たちを連れていきました。ピクニックのことはあまりよく覚えていませんが、当時の私はいやいやながら参加していたような気がします。 (アーリーンは山口県人会のピクニックをとても楽しんでいたようですが、 私にとっての県人会ピクニックはそれほど楽しいものではありませんでした。)私が高校生になる頃には、私たち兄弟妹は誰もピクニックに参加しなくなってい ました。そしてその後20年間、私は広島県人会にかかわることはほとんどありませんでした。実際私は、1992年に大学を卒業するまで、日本や日系に関す る全てのことから距離を置いていました。そして大学卒業後、私はJETプログラムの英語講師の職を得て、広島県のちょうど北に位置する島根県に行くことに なりました。私が公立学校の講師として2年過ごしたところは、隠岐諸島で、古くから罪人の流刑地として知られ、天皇も2人流された島でもあります。

隠岐諸島は本州から船で数時間もかかるところにあり、私は島に住む唯一のアメリカ人だったこともあり、自分まで島流しにされたような気持ちになるこ ともありました。(当時はインターネットやEメールが使われる前の時代だったのです!)しかし、私はこの2年の滞在を経て、酒飲みの文化を含め、日本文化 に対する理解を深めることができました。

ロサンゼルスに戻った私は、ロサンゼルス市統合教育区のサンフェルナンド・バレー地区にあるSherman Oaks Center for Enriched Studiesというマグネット・スクール* に科学の教師として赴任しました。今年、私はこの学校に来て13年目になります。教員として私は、数々の素晴らしい経験をしてきましたが、その一方で疲労 やストレスを感じることもありました。そういう時に、伯父のハジメが近くに居てくれたことはとても幸運なことでした。なぜなら(父と違い)伯父は、僕のよ うに酒好きだったからです。

ハジメ伯父さんは、私の父の兄で、1960年代初頭に広島からアメリカへ移住して来ました。父と同じように伯父も、積極的な広島県人会のメンバーで した。私が日本から戻ると、伯父と私は2人で「飲み会」を開くようになりました。私たちは酒を酌み交わしながら、私は仕事上のストレスを癒し、伯父は私に 近況報告をしてくれました。私が広島県人会の衰退を知るようになったのは、90年代後半、伯父との飲み会を通してです。伯父は、かつて数千人いた県人会メ ンバーも数百人にまで減ってしまったことをたびたび話題にしました。そして、私に県人会に入ってメンバー増員に力を貸すよう、それとなく頼んできたので す。伯父は、広島県人会は県人会の中では珍しく独自のビルを所有していることを持ち出し、県人会がなくなった場合、その建物が市に渡ってしまうだろうこと まで付け加えました。そのビルの話を聞けばやる気が起きない訳ではありませんでしたが、伯父がその話を始めるたび、私は他のことで忙しすぎるから、と断っ ていました。実際に私は、Yonsei Basketball Association (四世バスケットボール愛好会)やJET Alumni Association (JETプログラム参加者の同窓会)、青少年バスケットボールチーム、などといったボランティア活動にどっぷり浸かっていたのです。

1999年、私の母は乳癌で他界しました。当時の私は、母の死を悲しむ一方で、多くの責任を抱え、生活のバランスをとるのが困難になっていました。 そのため、私はボランティア活動をかなりの量減らし、自分がロサンゼルスでかかわっている全ての活動からいったん身を引こうと考えました。そして、気持ち を一新しようと、フルブライト教育交流プログラムに申し込みました。そして私は奨学金を手にすることができたのです。

2004年1月、私は南アフリカへ行き、モザンビークとの国境付近の「青空学級」で科学を教えることになりました。最寄りの町へ行くにも数時間を要 するその町では、ズールー語が主に話され、現地に英語を話す人はほとんどいませんでした。私は再び、島流し状態にあったわけです。でもこの時ばかりは酒も なく、酒がないばかりか、水道水や電気すらなかったのです!でも私たちはそのような環境の中、最高に充実した日々を送っていました。課外活動として私は、 学校にバスケットコートを作る手伝いをしました。1年の滞在期間中、私は実に多くの体験をすることができたのです。何度も病気になったり、歯を1本失った りと大変なこともありましたが、私たちの貢献によって、教え子やこれからの子供たちが新しい経験をしていくだろうことを考えると、私はその1年を笑って振 り返ることができるのです。(私はアメリカに帰国してから人口歯を入れました。)

2004年12月、ロサンゼルスに戻った私は、ヘトヘトに疲れていながらも、環境の変化を再び受け入れる準備ができていました。その頃、伯父は広島 県人会の会長になっていました。伯父との飲み会をし始めるとすぐに、私に広島県人会の活動に参加するよう求めるようになりました。この時、伯父は私に更な るプレッシャーをかけてきたのです。「南アフリカの人々にそれだけのことができるなら、なぜ身近な人たちのために何かしてやれるだろう」という伯父の言い 分は、確かに頷けるものだったのです。そして、この頃の私は、以前のように忙しくはありませんでした。

伯父は、広島県人会の付属団体を立ち上げるため、県人会メンバーであるチャールズ・イガワ博士にも手伝いを依頼しました。イガワ博士には、過去に広 島県人会奨学金を受賞した総勢100名以上の連絡先リストが手渡されました。リスト先に郵送した初回の通知文には、減少傾向にある県人会の会員を増やす必 要性が強調されました。しかしながら、2005年2月に開かれた最初のミーティングに現れたのはたったの3人でした。私たちはミーティングで、会として何 を目指し、目標の達成のためにはどう進むべきかアイデアを出し合いました。その後2、3ヶ月間、私たちは話し合いを続けるために数回に渡ってミーティング を開きました。そして私たちの会の呼び名をヒロケンとし、2005年6月4日、ヒロケンのデビューイベントとして、カリフォルニア州トーレンスで焼肉ピク ニックを開催しました。約50名が集まりましたが、そのほとんどは招待した県人会メンバーや友人たちでした。

実行委員に課せられた次なる仕事は、会の方針を明記することでした。簡単にまとめると、ヒロケンは全ての人をメンバーとして受け入れ、いかなるバッ クグランドの人もイベントへの参加に歓迎し、日本と日系社会、そしてその遺産の継承のためのイベントや活動の促進に重点を置く、ということになりました。 「広島」に固執しない方が、新しいメンバーを集めやすいだろうと判断したのです。また、会費制としないことも功を奏するだろうと考えました。

過去3年間、ヒロケンは年3回のペースでイベントを開催してきました。その内容は、大学教授による講演会、映画上映会、花見、リトル東京への小旅 行、饅頭作りワークショップ、さくらんぼ狩り、避暑地での釣りなどがありました。私たちは、Myspace、Facebook、びびなびといったインター ネットのネットワーキングサイトや、JET Alumni Association (JETプログラム参加者の同窓会)のメーリングリスト、羅府新報の広告欄など、各種媒体を使ってイベント告知を行いました。

ヒロケンが活動を始めたばかりの頃、広島県人会は私たちから目を離すことはありませんでした。県人会リーダーは全てのヒロケンイベントに参加し、 ミーティングにも同席しました。私に県人会ビルの合い鍵が渡されるまで、1年かかりました。今では県人会は私たちを信用し、躊躇することなくヒロケンの県 人会ビルの使用を受け入れています。

当初、広島県人会とヒロケンの間には、交流はほとんどありませんでした。私たちは別々にイベントを開催し、対象となる参加者層も異なっていました。 そして私は伯父との飲みの席でヒロケンの近況を報告していました。すると、当時県人会会長だった伯父は、西本願寺での故広島県人会メンバーを偲ぶ定例法要 に出席し焼香することや、恒例の県人会ピクニックといった県人会イベントにヒロケンが参加することを要求してきたのです。初め、ヒロケン以外の活動にまで 実行委員の出席を促すことは困難でしたが、数年後、ヒロケンは積極的に県人会イベントに参加するようになっていました。ヒロケンが過去2年間にわたり県人 会ピクニックで子供のゲーム運営を担当したこともその1つです。県人会は、今後も私たちがこの役割を引き受けていくことを期待しているのです。

実行委員は全員がボランティアであるにもかかわらず、今まで立派にヒロケンを率いてきたと思います。しかし、一般参加者がより積極的にかかわるよう になることが、私たちの課題なのです。多くの参加者は、一度だけイベントに参加して終わりなのです。また、実行委員としてヒロケンに協力しようという参加 者はほんの一握りしかいませんでした。中心メンバーの入れ替わりもありました。が、最近になって少し希望が持てるようなこともありました。実行委員として の活動参加を希望する人が増え、今では委員の数が10人に達したのです!ヒロケンへの関心が高まった理由の1つに、私が伯父を真似て使うようになった、 「ハジメ・テクニック」もあるような気がします。そうです、ヒロケンが長続きすれば、あの県人会ビルがいつか自分たちのものになるだろうことを、私は参加 者たちに話していたのです。ハジメ伯父さんの県人会ビルの話が私をやる気にしたなら、他の人にもきっと効き目があるだろうと私は考えたのです。

ヒロケンの未来を考えた時、短期間で取り組むことができるのは、面白く有意義な内容のイベントを作り、それを既存の年間行事に付け加えることです。 また、資金調達やウェブサイトの設立、外部への働きかけにも取り組まなければなりません。私たちが時間をかけて長期で取り組むべきことは、地域社会に貢献 できる存在として、また、県人会ビルの責任ある管理者として、持続可能な団体になることです。そして私たちは、広島県人会の遺産を継承していかなくてはな りません。高い目標を掲げていますが、10年もすれば、私たちはその目標を達成し、大きな転換期を迎えることができるでしょう。そしてヒロケンがそこまで 到達すれば、ハジメ伯父さんは私に様々な要求をもってプッシャーをかけることをやめ、2人とも平和に酒を酌み交わすことができることでしょう。私たちのた めに幸運をお祈り下さい!そしてヒロケンに興味を持って下さったあなた、参加をお待ちしています!

© 2009 Ken Mukai

コミュニティ ヒロケン 広島市 広島県 日本 ピクニック
執筆者について

広島県出身の父を持つ日系アメリカ人二世。ムカイ氏はウェストロサンゼルスで育ち、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA) を卒業した後、JETプログラムの英語講師として2年間日本に滞在した。その後ロサンゼルスに戻り、ロサンゼルス市統合教育区の高校で14年間科学を 教えている。2004年には、フルブライト・プログラムでサウスアフリカに赴任し、教鞭をとった。2005年、若い世代による広島県人会の付属団体ヒロケンの設立に携わった。

(2009年4月 更新)

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