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日系人の歴史を伝えるノンジャパニーズ: 全米日系人博物館でドーセントを務めるネーハン・グルックさん - その3 知ることからすべては始まる

>>その2

14年間、リトルトーキョーの全米日系人博物館でドーセントのボランティアを務めるネーハン・グルックさんに会って,私は「信じたことに忠実に奉仕する人」の姿に触れる思いだった。

しかし、日系アメリカ人の歴史にこれだけ深く入り込んでいる一方で、自身のルーツについてはどう思っているのだろうかと気になり、質問してみた。

ネーハンさん自身は1932年にニューヨークで生まれた。父親はニューヨーク生まれのドイツ系のアメリカ人、母親はアイルランド生まれの一世だ。この母親の逸話が非常に興味深いものだった。

11人兄弟の長子だったネーハンさんの母親は、アイルランドの貧しい農家に生まれた。正式に学校に行く機会もないまま、母親は近所の農家に奉公に出 される。その家の子供たちの面倒をみるのが彼女の仕事だったが、女主人に虐められ、遂に耐えかねて18歳の時に家出をした。たった1人で船に乗り、アメリ カ大陸に渡った。不法入国者として。

その後、ネーハンさんの父親と出会い結婚、子供たちにも恵まれたが、長い間、自分の母(ネーハンさんの祖母)のことを恨んでいたそうだ。「アイルランドは貧しい国で、何もいいところなどない。私は実の母親に厄介者のように追い出された」と話していたと言う。

後年、ネーハンさんがイギリスの親戚の結婚式に出席した時のこと。せっかくの機会だからと、隣のアイルランドを訪れたことがある。

「スコットランドからフェリーで北アイルランドに渡った。イギリスのナンバーのレンタカーだった。誰もがそんな無防備な状態で北アイルランドに行く べきでない、と止めたよ。でも、私はどうしても母の故郷をこの目で見たいと思っていた。確かに北アイルランドでは車のナンバープレートを見て止められた。 でも、私がアメリカ人だとわかると何の問題もなかった」

そして、聞き込みを続けて、アイルランドの母の実家のグリーン家の住居を探し当てた時、ハートマウンテン収容所のバラックを目にした時の気持ちがフラッシュバックした。

「11人も子供がいたと言うのに、小さな小屋(話を聞いていた会議室の2倍くらいしかないと表現)、しかも床が土。トイレも外にあって、電気も通ってない。そんな酷い環境だった」

しかし、大きな発見があった。当時のグリーン家のことを知る人からこんな話を聞かされたのだ。

「あなたのお母さんは,子供の中で一番愛されていた。でも、その家に残しても明るい未来はないと、あなたのお祖母さんは思った。それで、教師だった妻を持つ農家に奉公に出した。働く代わりに彼女から勉強を教えてもらうことができるからというのが、その理由だ」

ネーハンさんの母親は、その時まで、実の母親を恨み続けていた。しかし、奉公に出されたのは、娘を思ってのことだったのだ。ネーハンさんがそれをアメリカの母に伝えた時,彼女は既に94歳になっていた。

「それでも、最後、真実を確認できて良かった、と心から思っている」とネーハンさん。

やはり、真実を知ることからすべては始まる。ネーハンさんの「真実を知りたい」という思いとフットワークが、母親の積年のトラウマを溶かしたと言え るだろう。14年間、日々奉仕しているボランティア活動のエネルギー源もそこにある。「知ることの大切さ」を彼が実感しているからだ。

私の子供はロサンゼルスで生まれた日系二世だ。長男が生まれた時、全米日系人博物館のチルドレンズコートヤードに寄付して、前庭の敷石に名前を刻ん でもらった。玄関まで見送ってくれたネーハンさんにそのことを話すと、彼も「私の孫たちの名前も刻まれているよ」と即答した。聞くまでもない答えだった。

彼は「もう、来なくていいよ、と言われるまで、ここでボランティアを務めるつもり」だそうだ。彼が来なくてもよくなる日が来ることなど想像もつかないが。ちなみに、この3月で彼は77歳になる。

(終)

© 2009 Keiko Fukuda

community culture docent German American janm JANM volunteers Japanese American National Museum Nahan Gluck volunteer