ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2008/10/30/parana-folklore/

ブラジル、パラナ民族芸能祭にみる文化の伝承 ―日系コミュニティの将来とマツリ、そしてニッケイ・アイデンティティ― その2

>> その1

5.「ばあさんたちの踊り」とフォークダンス ― 日欧の対比

筆者が初めてパラナ民族芸能祭を見物したのは1980年代始めだったが、その際に一種のショックを覚えた。そして当時は誰もが同じ感想を抱いたことと思う。なぜならば、日系以外のヨーロッパ系グループではどのグループにおいても子どもたちがたくさん参加しており、若い男女が各々の民族衣装をまとってフォークダンスを華麗に、そして時にはアクロバティックな演技を披露しながら様々な演目をきびきびと踊っていた。これに対し日系グループでは、中年とお年寄りの女性たちが日本舞踊や音頭を、優雅ではあるが、ゆっくりとしたテンポで踊っていたのである。その年齢構成、男女比、そして動きの緩急における対比は誰の目にも明らかで、強い印象を残さずにはいられなかった。日系人のあいででさえ、「ばあさんたちが毎年同じ踊りを踊っている」という酷評が囁かれていた。

なぜこのような顕著な対比が生まれたかを考えてみると、第一に、日本の舞踊に、ヨーロッパのフォークダンスに相当する郷土舞踊であれ伝統舞踊であれ、男女がペアで一緒に踊るという機会がほとんどないことが挙げられる。そのために若者にとっては、参加してみたいという魅力に乏しいものになっていると考えられる。フォークダンスには、民族衣装や踊りの華やかさもさることながら、男女が手を取り合いペアで踊る魅力がかねそなわっている。

しかし、他のエスニックグループの内情をより詳しく調べてみると、日系グループとは異なるもう一つの相違を見つけることができる。他のすべてのグループにおいては、参加者の約半数が他のエスニックを背景にもつ人々によって占められていることである。言い換えれば、彼らの多くにとって何らかの民族芸能を踊り歌うのは、それが彼らにとって最も魅力的であり一番愛着を抱いているからである。イタリア系グループにはドイツ系やポーランド系子孫の参加者がいて、ウクライナ系グループにはイタリア系やスペイン系の参加者がいるといった類のことである。実際のところ、ドイツ系、ポーランド系グループには日系人の参加も見られた。これらの参加者にとっては、イタリアやウクライナ、ドイツのそれぞれの踊りが自分にとって一番魅力的であり、格好良いものと了解されているのである。彼らはその具体的な踊りが好きでたまらず、それが一番好きだからこそ踊っているといえる。そして、各々のグループにとっては、こうした他のエスニックを背景にもつ参加者が存在することで、グループとしての存続が可能になっていることをそれぞれの関係者は認めている。

それでは、中年以降の女性しかいない日系グループはどのようにして生き残っていくことができるであろうか。日系グループがグループとして存続し、その文化的な伝統を伝えていくには、若い世代を仲間に入れることはもちろんのこと、他のエスニックグループの人々をも魅了できるグループとして生まれ変わることが肝要であった。

若い世代に民芸祭へと関心を持たせるために日系のリーダーたちが試みた方策の一つは、日本舞踊の名取を招いて中年の二世やお年寄りの一世とともに若い三世に日本の舞踊を教えることであった。なぜ日本舞踊になるのかといえば、海外においては日本舞踊が比較的広まっており師匠としての名取もそれなりに存在するからである。これに対し、それ以外の民族芸能の分野ではその道の専門家を容易には見つけられないのが現状である。いずれにせよ、この名取の数年間にわたる個人的な努力により、三世の娘の中から日本舞踊に関心をもち民芸祭に参加する若者のグループが生まれるようになった。彼女たちにとっては、カリオカ(リオデジャネイロ住民)にとってのカーニバルと同様に、年に一度の晴れ舞台で、その憧れを含めて、他のエスニックにはない日系独自の芸を披露する格好な場であった。他のブラジル人とは異なり、日系ブラジル人であることを顕示する重要な機会だったのである。そして日本舞踊の衣装は確かに美しく誇れるものであった。

しかしこの三世の娘たちも、二・三年を経るとすでに日本舞踊には満足できないようになっていた。サンバやカーニバルのラテン文化の環境で成長したブラジル人である三世たちにとっては、それはあまりにも単調でゆったりとしたものだった。「先生、Acho que não dá.(これダメですよ)もっとテンポの速いもの」と三世は名取に迫った。しかし師匠の名取にしてみれば、「あの娘たちのは日本舞踊じゃないんですよ」と日本舞踊にも当然限界があった。かくしてある年、三世の娘たちは自分たち独自の道に進むことを決意し、自分たちだけで振り付けを行い、自分たちの芸を披露した。しかし、それは日本舞踊としては決して成功とは言えず、ブラジル風日本舞踊は残念ながら結実しなかった。いずれにせよ、事実としては、彼女たちは自分たちが望むような方法で自分たちを表現する手段を見い出せなかったのである。

勢ぞろいした参加グループ、2003年。

6.よさこいソーラン、太鼓との出会い

グローバリゼーションの進展とともに、情報はもとより、衣装や音楽テープ、ビデオやCDといった商品の入手や人の交流が格段に容易になってきた。

民芸祭のイタリア系グループでは、インターネットを駆使してイタリア各地のフォークダンスの歴史を調査し、衣装や振り付けを調べ上げて新しい演目を増やしている若者や、現地と連絡を取り研修に訪れる者まで現われている。ドイツ系グループでは、年1回ブラジル全土からフォークダンス関係者が集まり、本国から専門家を招いてリーダーたちの研修を行い、そのリーダーたちが地元に戻って指導や普及にあたっている。さらにはポーランド系グループでは、本国から数年おきに振付師が派遣され年間をとおしてフォークダンスの指導を行っているほか、二年おきに世界各地のポーランド系移民が集いフォークダンスの研修会を行いヨコの交流を広げている。こうした地道な活動があるからこそ、イタリア系であること、ドイツ系であること、ポーランド系であることに移民の子孫たちが関心をもつようになっていると考えられる。

しかし、日系においてもグローバリゼーションの進展の影響が見られないわけではない。よさこいソーランがその一つである。よさこいソーランは衛星テレビやビデオによってブラジルにも1990年代後半に紹介された。そして、その結果は際立っていた。三世たちはよさこいソーランにたちまち魅了された。なぜなら、この踊りはテンポの速い「日本の踊り」であるだけでなく、その振り付けも衣装も自分たちで創作することができたからである。よさこいソーランでは、どのグループにもわずかな規則を除いて自分たちオリジナルの衣装と振り付けを創作する自由が与えられている。そして何よりも、この踊りでは男女がいっしょに踊ることができるのである。男子が女子と一緒に踊ることを恥じる必要がなくなったのである。

三世の娘たちが自分たちのやり方、存在を表現したかったのは、まさにこのような踊りにおいてだった。そして、これならば非日系のブラジル人が関心をいだいてもおかしくなかった。案の定、時を待たずして非日系ブラジル人が参加するようにもなった。

これと同じような現象を、私たちは1970年代以降の北米に広がったタイコに見ることができる。日本人により伝えられた和太鼓を基礎として、日系三世を中心にして独自の発展を遂げた北米タイコの存在である。そこには、日系アメリカ人あるいはカナダ人としてのアイデンティティを見出すグループや、伝統的な日本文化としてのコミュニティ活動の基礎を見出しているグループなどがある。南米においては、そうした和太鼓の人気やタイコの意味付けが到達したのはごく最近のことである。ブラジルにおいては、日本からの専門家派遣による指導で、急激にタイコ愛好人口が増加し、2004年になって初めてブラジル太鼓協会が設立された。今後、北米で見られたような文化現象としての広がりが十分予想される。また、個人レベルでは、ブラジルにおいてもタイコの中に日系ブラジル人としての自分の存在、ニッケイとしてのアイデンティティを見出そうとしている者がいたことは言うまでもない。

よさこいソーランとタイコが日系人の若者のあいだで受け入れられ、人気を呼ぶようになった背景には、共通した理由がある。ともに日本文化に起源をもちながら、そこにはある種の精神性と適度の独自性を見い出すことができるからだと思われる。つまり、ともに常日頃の鍛錬が必要とされていることと、そのリズムや振り付けを創作できることから独自色を打ち出せる特徴が存在することである。それによってニッケイというアイデンティティを作り上げ、表現しアピールすることが可能である。見方を変えれば、ニッケイとは生まれながらにして備わっているものではなく、努力を重ねることによって獲得するものとなったのである。この時点で、人はニッケイとして生まれるのではなく、ニッケイ文化を獲得して初めてニッケイになるのだということが理解される。

7.ニッケイであること

フィールドの現場で日系二世や三世にインタビューを行うと、彼らの多くがそのアイデンティティのあいまいさをしばしば口にするのに出会う。日本人でもないし、ブラジル人でもない。その中間を行ったり来たりする存在としてのあいまい性を告白するのである。それをどのように表現するかは個人により異なり、「半分は日本人でもう半分はブラジル人」という回答もあれば、「日系ブラジル人」という表現の中に押し込んでしまうこともある。しかし、1990年代後半以降、「自分は“nikkei”(ニッケイ)である」とはっきり回答する二世や三世が現われてきたことは注目に値する。この場合に、「ニッケイ」とは日本で使う日系人の「日系」、漢字で表記する「日系」とは異なる意味合いが込められている。日系人といった場合、それは日本にいる日本人側が勝手に命名し漠然と抱いているイメージに過ぎず、当の日系人の中には日系人というカテゴリーに含められることを否定する人々も多数存在する。ところがここでいう「ニッケイ」はあくまで日系人自身が、一部とはいえ、自己を定義しているものであり、独自なものオリジナルなものを意味している。そして、日本人の血統を引いているという生得で受動的な意味を越えた、獲得していくものとしてのより積極的な意味合いを含んでいる。アメリカにおいても、ジャパニーズ・アメリカン(日系アメリカ人)とは異なるものとしてニッケイを捉え、より包括的でオリジナルな意味を見出している人たちが存在する。

グローバル化の進展により日系人同士が交流するような機会も増えてきた。海外日系人大会やパンアメリカン日系人大会はもとより、例えば、日系アメリカ人と日系ブラジル人が日本で出会い、一緒にパーティを開くといったような交流も現われてきた。こうした機会に彼らが国籍は異なっていても互いに通じ合うところを感じ取り、その共通する何かをニッケイ性として捉えることは稀ではなくなってきた。

このことは新たなるニッケイ世代の到来を意味し、その中で踊りやタイコといった芸能が重要な役割を果たしていくことを暗示している。そしてその将来はといえば、非日系の人たちにとっても十分魅力が伝わり共感されるものとなり、その中から参加し伝承していく者が現われるようになってはじめて、ニッケイ文化として受け継がれていくと思われる。ニッケイ世代は、間違いなく自分たちの声を上げ、日系移民の歴史に新たなるページを切り開いていくことであろう。

参考文献

アケミ・キクムラ=ヤノ編『アメリカ大陸日系人百科事典』(明石書店)2002年

移民研究会編『戦争と日本人移民』(東洋書林)1997年

ハルミ・ベフ編『日系アメリカ人の歩みと現在』2002年

細川周平『サンバの国に演歌は流れる』(中公新書)1995年

 

*本稿は、『南北アメリカの日系文化』(人文書院)に収録されたもので、許可を得て掲載しています。

© 2008 Shigeru Kojima

ブラジル コミュニティ 文化 フェスティバル アイデンティティ 祭り
執筆者について

新潟県三条市出身。上智大学卒。ブラジル国パラナ連邦大学歴史科修士課程修了後、東京学芸大学などの講師を経て、JICA横浜海外移住資料館設立に関わる。早稲田大学人間総合研究センター招聘研究員。移民史、移民研究。主な著作に「日系コミュニティの将来とマツリ」(山本岩夫他編『南北アメリカの日系文化』人文書院、2007年)、「日本人移民の歴史から在日日系人を考える-ブラジル移住百周年と日系の諸相」(『アジア遊学』117、勉誠出版、2008年)、「海外移住と移民・邦人・日系人」(駒井洋監修『東アジアのディアスポラ』明石書店、2011年)。

(2021年4月 更新)

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