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日系人からの脱皮 ― 新しいアイデンティティとしてのニッケイ ― その2

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3.日系コミュニティの変遷

ブラジルにおける日系コミュニティの変遷を歴史的に辿ってみると、大きな流れとして、戦前、戦後以降、そしておよそ1980年代以降という区分ができる。そしてそれは、日系コミュニティの呼び方、その総体の一般的呼称からも理解できる。つまり、戦前の在伯同胞社会から、戦後以降の日系コロニア、そして80年代以降の日系社会という大きな区分である。

在伯同胞社会、日系コロニア、日系社会

第二次大戦以前は日本人移民の大多数は、あくまでも日本人としての意識をもち、ブラジルに滞在する同じ日本国民という観点から、その総体を在伯同胞社会と呼ぶことが一般的だった。日本の敗戦による大戦後は、ブラジル社会の一員として生きていく日系人の総体として、植民地を意味するコロニアと いう言葉にジャポネーザを冠し、日系コロニアという表現が使われようになった。この集団においては、一世が中心となって日本との繋がりが重視され、アイデンティティとしても日本人であった。その後、日系人がホスト社会であるブラジル社会に次第に浸透していく中で、日系人の中にも、日系コロニアにアイデンティティを持たずブラジル人としてのアイデンティティを獲得していく人びとが増えて行った。そして、そうした日系人を含めて、その総体をコムニダーデ・ニッポ・ブラジレイラ、つまり日系社会と呼ぶようになった。ちなみに、タニグチはまさにこの日系コロニアの外で生きてきた日系人であった。


日系コロニアとは一線を画す日系人が増加するに伴い、日系コロニアは次第に縮小してきたが、その傾向に一層拍車をかけたのが、1980年代後半以降の日本へのデカセギ現象である。

この日系社会においては、当然のことながら、日系人自身のアイデンティティも多様である。日本人の子孫としての明確な意識をもたずアイデンティティとしてはブラジル人だという人たちも多くなった。そして日系コロニアの縮小化進行に伴い、その存立が危ぶまれる事態にまで至り、活性化のための様々な試みがなされてきている。

4.日系からニッケイへ

日系人の中には日本人とは違うという認識をもつ人々がいることはすでに述べた。その一方で、ブラジルにおいてはやはり他のブラジル人とは異なることから、自分が一体何者なのか、日系ブラジル人というアイデンティティの曖昧性に戸惑う二世・三世も少なからず存在する。あるいはまた、その曖昧性の中に固有なものを見出し、日本人が理解する日系人とは異なる意味で「nikkei(ニッケイ)」という新しいアイデンティティを模索する三世も出現している。

マツリに見るニッケイ・アイデンティティ

日系人が各地で取り組んでいるマツリの中には、単にコミュニティの儀式や娯楽としてのイベントではなく、日系人のアイデンティティそのものを打ち出す機会として捉えられているマツリがある。パラナ州クリチーバにおけるパラナ民族芸能祭がその一例である。そこでは、日系人が踊りやタイコといった芸能をとおして、日本文化だけではなくニッケイ文化をも究めるべく、日々その鍛錬にいそしんでいる。日本文化にその根を持ちながらも、ブラジルという風土で育まれた日系人が取り組むニッケイ文化である。日本文化の習い事として始まっているとはいえ、それは決して日本文化ではなく、日系人によるその固有なニッケイ文化の発露である。その究極の目的は決して日本文化の真似事ではない。そのニッケイ文化をとおして彼らはnikkei(ニッケイ)という独自なアイデンティティを主張しようとしているのである。

新しいアイデンティティとしてのニッケイ

日系人という場合、あくまで日本人の側から見た、海外の日本人移住者やその子孫の総称を指しており、その多様性は全く考慮されていない。しかし、ニッケイ・アイデンティティは、その当事者による自己定義であり、獲得していくものとしての性格を備えている。日本人から見て日系人という範疇に入る人が、すべてニッケイになるわけではないということだ。この背景にはグローバリゼーション進展の影響がある。一つは日本からの豊富な情報の流入と積極的な交流であり、もう一つは各国日系人同士のヨコの連携である。日本との交流が深まることで、日本文化に触発されそれを吸収する一方、究極的には日系人のもつ文化が日本文化とは異なることに行き当たる。さらには、国をまたがる日系人同士の接触はニッケイに共通した属性を見出す機会となり、日本文化に基礎を置きながらも、そこに固有なニッケイ性が垣間見られるのである。


冒頭で紹介したカシオ・タニグチは、日系コロニアではほとんど無名だったにもかかわらず、まさにジャポネースとしての資質ゆえにブラジル社会で受け入れられた。その意味で、日本から見た日系人という殻から脱し、ニッケイ・アイデンティティを体現した一人と言えるのではないだろうか。日本人移住者がブラジルという新しい国に種をまいた日本文化、その日本文化はブラジルという土壌を得て、今その子孫たちによって新しい文化としてニッケイ文化を形成している。

クリチーバ福島県人会タイコ部の若者たち

参考文献

宮尾進『ボーダレスになる日系人』(サンパウロ人文科学研究所、2002年)

移民研究会編『戦争と日本人移民』(東洋書林、1997年)

日本ブラジル交流史編集委員会編『日本ブラジル交流史-日伯関係100年の回顧と展望』(日本ブラジル修好100周年記念事業組織委員会、1995年)

 

* 勉誠出版 『アジア遊学 76号-特集・アジア<日本・日系>ラテンアメリカ日系社会の経験から学ぶ』より転載

 

© 2007 Kojima Shigeru