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日系人からの脱皮 ― 新しいアイデンティティとしてのニッケイ― その1

1.ブラジルにおける日系人のイメージ

1997年、ブラジルでは州都の市長として日系人では初めて、パラナ州の州都クリチーバにカシオ・タニグチが選出された。そしてその後タニグチは、同市長としてはこれも初めて、連続二期を務めるという栄誉にあずかった。しかし皮肉なことに、市長選挙立候補当時タニグチは、同市の日系コミュニティにおいてその存在がほとんど知られていなかった上に、そのリーダーたちとも交流がなかった。その一方、タニグチの選挙戦では、タニグチが日系人であることをはっきりと意識した選挙戦略がとられていた。

ジャポネース・ガランチード(信頼できる日本人)とオーリョス・プシャードス(垂れた細い目)

タニグチの選挙運動では、ガランチードとオーリョス・プシャードスがそのキーワードとして随所に見られた。ジャポネース・ガランチードとは、今日でもブラジルで広く一般に耳にするポルトガル語表現で、直訳すれば「保証された日本人」ということである。その意味するところは、要するに日本人であれば信頼できる、信用するに値するということになる。これはブラジルに渡った日本人移民である一世たちが、異国の地で苦労を重ねながらも誠実に働き、その勤勉さやとくに農業分野における顕著な貢献を認められたものである。いわばブラジル人のあいだから勝ち取った日本人移民に対する肯定的評価を象徴する言葉である。

このジャポネース・ガランチードが、日本人移民およびその子孫(以下、日系人)に関する内面的特徴を表現する言葉だとすれば、オーリョス・プシャードスは日系人の外面的特徴を代表する言葉だといえる。オーリョス・プシャードスは直訳で「引っ張られた目」の意味であるが、欧米人と比べて日本人の目が垂れぎみで細いことから、その外面的特徴をさしたものである。両手で目尻を下に引っ張ると日本人の目のようになる、というわけだ。このジャポネース・ガランチードのジャポネースを省略した「ガランチード」と「オーリョス・プシャードス」は、言ってみればブラジルにおける日系人の代名詞である。タニグチの選挙戦では、このガランチードが「信頼できる日本人」と「保証付き」をかねる言葉として多用され、その顔を見れば一目瞭然であるにもかかわらず、選挙放送でも両手で目尻を横に引っぱる動作を示して、オーリョス・プシャードス、つまり日系人であることを強調していたのである。言い換えれば、タニグチが信頼に値する有能な官吏であり、誠実で働き者であることを強くアピールしていたことになる。

ニセイ(二世)と日系人

タニグチはいわゆるニセイである。ポルトガル語のニセイ(nissei)という言葉は、今でこそその意味するところが第二世代つまり二世であることがかなり多くのブラジル人にも浸透し、ポルトガル語辞典にも記載されている。しかし以前は、ニセイが日系人を意味するものと誤解していたブラジル人もおおぜいいた。とくに、サンパウロ州やパラナ州といった日系人が集中している地域以外では、その傾向は著しかった。現在ではニセイだけではなく、イッセイやサンセイといった表現もある程度理解されるようになり、ブラジル人の口からもそうした表現がよく聞かれるようになった。

「イッセイ、ニセイ、サンセイ、ナォン・セイ(一世、二世、三世、何世)?」

「移民であるイッセイ(一世)の子どもがニセイ(二世)で、孫はサンセイ(三世)というそうな。それなら、その次は何セイ(世)というのだろう?ナォン・セイ!」という冗談話がある。この場合、ナォン・セイは、ポルトガル語の“Não sei”を指し、英語で言えば“I don't know”「私には分かりません」という意味になる。こうした冗談話が、かなり広範に非日系ブラジル人の口から我々日本人に向けても披露されるようになった。つまり、日系人に対する理解が高まってきている証拠といえる。

2.ジャポネースの変遷

日系人はブラジルにおいてどのように見られてきたか、あるいはまた日系人自身は日系であることをどのように受け取ってきたかを考察してみよう。1980年代当初、日系ブラジル人の約8割が存在するサンパウロ州やパラナ州、この日系人口が集中している二州以外のブラジル各地に足を踏み入れると、日本人や日系人は「シネース(中国人)!シネース!」と囃したてられたり呼ばれたりすることがしばしば起こった。好奇なものに対する関心から、あるいはからかい半分によるものがほとんどだが、なぜシネースなのか、その理由ははっきりとは分からない。また、こうした現象はブラジルに限らず、かなり以前からヨーロッパでもアジア系の人々は一様に「中国人」と呼び慣らされていたようである。それは単に中国の方が日本よりも歴史が古く一般によく知られていたからなのか、クーリー貿易などの影響に由来しているのかもしれない。あるいは19世紀初頭にすでに中国人はブラジルに渡っており、約1世紀遅れた日本人よりも早い時期 に各地に渡って生活しており、その存在と呼び名が知られていたからだとも推測される。いずれにせよ、そう囃し立てていたブラジル人にとっては、中国人も日本人も同じアジア系であることに変わりはなく、その区別すら注目に値しないか、そもそも知識として持ち合わせていなかったからだと思われる。

ジャポネース、ジャッパそしてニホンジン

では中国人と日本人は異なる国民だと理解している人びとからは、どのように呼ばれてきたのだろうか。ポルトガル語でジャポネースは日本人の意味になるが、すでに述べてきたように、ブラジルにおいては日系人もブラジル人から一般的にジャポネースと呼ばれている。そのジャポネースの派生語であり、侮蔑的な意味を込めたジャッパという表現も耳にすることがよくあった。ちょうど北米においてジャップという表現が存在するように、蔑みの言葉である。そして、ジャポネースと呼ばれることが普通でも、一部のブラジル人からあるいは一定の契機に、蔑視的な意味合いを込めてジャッパはしばしば使われた。とくに日系人がコロニアと呼ばれる日系集団社会に閉じこもり、ホスト社会から見えにくい異分子集団として捉えられていた時代には、嘲笑の対象としてこのような呼称がたびたび使われたのである。

またブラジルにおいては、日本人あるいは日系人が均質的で画一的なものとして受け取られることが多かった。いわば「顔のない日本人」として理解されていた。その典型的な俗言が、「ジャポネース・エー・トゥード・イグアル(ジャポネースはみんな同じ)」、「ウン・カミニャオン・デ・ジャポネース・エー・トゥード・イグアル(トラック一台いっぱいに乗り込んだジャポネースはみんな同じ)」といった類のものである。日系人はみんな同じ顔をしている。日系人はみんな似ていて区別がつかない。そうした印象が一般ブラジル人の平均的なものであった。

このような時代においては、二世や三世の若者の中には「ジャポネース!ジャポネース!」と囃し立てられることを不快に感じて、日系人として認識され目立つことは極力避けてとおり、日本文化には関心を示さない者が多数見られた。一世が楽しそうに行っている太鼓や盆踊りの行事にも、参加すること自体がブラジル人として「恥ずかしく」遠ざけていた、とある三世は回想している。しかしこうしたいわば心理的な重荷を背負った日系人も、それをバネにして着実に社会上昇していき、とくに大学への進学率を上げていった。1970年代当初には、サンパウロ州人口に占める日系人の比率はわずか2.7パーセントであったが、サンパウロ州立総合大学の合格率は約13パーセントに上っていた。そのため、サンパウロにおいては、「日系人を一人殺せば、大学入試に合格する確率がその分増える」といったブラックユーモアまで広く言い伝えられた。日系人は優秀だという評判が定着し始めた時期である。同じく1970年代前半には、日本企業のブラジルへの進出ラッシュも重なり、日本製品を中心とした日本の存在がブラジルにおいて注目され始めた時期でもある。この頃からジャポネースにはインテリジェンチ、つまり「賢い」といった形容詞が盛んに付けられるようになった。

こうした「ジャポネース」にまつわる長短は、いわば表裏の関係にあり、微妙なバランスのもとに成り立っていた。そして、ジャポネースであることは、積極的に外部に対して意思表明しアピールするようなこととは考えられていなかった。

この傾向に変化が現れるようになったのは1980年代後半以降である。そしてこの時期には、南米日系人のいわゆる「デカセギ現象」が始まる。日本に就労や勉学を目的に渡る人々が急激に増加し、それとともに日本からの情報や商品の流入も増大する。またバブル景気とあいまって経済大国日本のイメージが急上昇する。日本人が尊敬され、日本人の子孫であることが評価され価値を生むようになったと考えられる。こうした背景から日系人の中には、自分が日系人であることをことさらに強調するような若者が現れるようになる。

また日本に渡った日系人の中には、生まれて初めて自分の先祖の文化に触れて、日本人との相違あるいは共通点に目覚める人々も現れる。日系人としてのアイデンティティを再認識する人たちが多数現れるようになったのである。ブラジルにおいて自分が抱いていた日本のイメージと現実とのギャップから日本人アイデンティティを失ってしまう者がいれば、祖父母から聞いていた文化の一端に触れて日本人の子孫としての意識を強くもつようになる三世も現れる。極端な場合には、「成田空港に降り立ち空港のロビーを歩いたその瞬間に、自分は日本人ではないとはっきりと理解できた」と回想する三世などもいる。ブラジルにおいてはジャポネース(日本人)と呼ばれていても、自分は決して日本人ではなく、日本のニホンジンとは違うと悟り、ジャポネースとニホンジンを明確に区別する日系人が出現する。つまり、日系人にとっては日本の日本人はあくまでニホンジンであり、ブラジルにおける日系人とは違うという認識である。

ペイシェ・クルー(生魚)からサシミ(刺し身)へ

今度は視点を変えて、食文化の側面から見ると、同じような興味深い変遷を辿ることができる。多くの二世や三世が証言しているように、かつて日系人はブラジル人から「ジャポネース・コーメ・ペイシェ・クルー!」(ジャポネースは[あの臭い]生魚を食べるぞ)と罵倒され、生臭い魚を調理もせずにそのまま食べる気持ち悪い人々として嘲りの対象となっていた。これはもちろん生臭い魚などではなく刺し身のことだが、そうした食文化をもたなかった大多数のブラジル人にとっては、奇妙なものに映っていたに違いない。

ブラジルで日本食レストランが一般のブラジル人にも受け入れられるようになった端緒は、1970年代後半から1980年代前半にかけて始まった健康食ブームによる日本食材への関心だと言われている。そしてその頃から日本食の高級化志向も同時進行し、刺し身や寿司を食べることは一種のステータスシンボルにもなっていった。ブラジル人の一般的なパターンとしては、日本食といっても最初は鉄板焼きに始まり、天ぷら、スキヤキ、焼きソバなどに移る。そしてそこから先に進まない人たちも多いが、刺し身や寿司に関心を示し、健康食であるということも手伝って、次第に抵抗なく生ものを食べるようになる人々も出てくる。また最近では、焼きソバがその手軽さや値頃感もあり、露天で販売する姿をよく目にするようになった。ブラジル人向けにアレンジした味付けのヤキソバを、非日系ブラジル人が調理し販売するようになったのである。

日本食はブラジル人のあいだで受け入れられるようになったし、かつては嘲りの対象だった刺し身や寿司は、今や尊敬すべき高級食に例えられるようになった。刺し身は「ペイシェ・クルー(生[臭い]魚)」ではなく「サシミ」としてその市民権を得たのである。この日本食に対する評価の変遷は、日系人そのものに対する評価と重なっている。理解できない奇妙なものから尊敬すべき高級なものへの転換である。そして世界で日本に対するイメージが上昇し、それにあいまって日系人への評価も高まると、日系人の側でも日本文化に対する積極的かつ肯定的な評価や捉え方が芽生えてくる。和太鼓や日本の踊りはもう決して「恥ずかしい」ものではなく、自分のルーツに関わるもので、自己を表現する大事な手段と見なされるようになったのである。それでは、今度は日系コミュニティの変遷を概観してみよう。

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*勉誠出版 『アジア遊学 76号-特集・アジア<日本・日系>ラテンアメリカ日系社会の経験から学ぶ』より転載

 

© 2007 Kojima Shigeru