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ブラジルの日本人街

はじめに

サンパウロ東洋街-その混沌の中に身を沈めているとき、めまいとともに何度も同じ疑問が頭をもたげたことがある。「なぜ日本人は海を渡り、地球の反対側のこんなところにまで自分たちの街をつくったのだろう?」

私は平素、ブラジルの大学で「日本語」や「日本文化」などの科目を担当している。ブラジル人学生たちとのやりとりで、彼らの理解の中にしばしば、日本人は閉鎖的だというステレオタイプ的なイメージを発見する。いや、日本人みずからも、「日本人はどうも閉鎖的で、おとなしすぎる」というような言説を振りまいているような気がする。そんな意見に対して、「いやそんなことはない。日本人が閉鎖的なら、こんな世界の果てまで来るはずがないじゃないか」という移民一世の反論を聞くこともある。

実際、倭寇や山田長政が活躍したというアユタヤ王国の例を引くまでもなく、日本列島に住む人びとは、中世から近世にかけてタイやベトナム、ルソンな ど東アジアの各地に日本人町と呼ばれる海外拠点を築いてきた。江戸時代の鎖国期をのぞいて、いやその鎖国期でさえ、私たちの先祖は海を渡って各地の人びと と交流してきたのである。

近代になると、この列島の人びとはさらにこの傾向を強めた。グローバルで急速に発展した交通のネットワークを通じて、新大陸をふくめた世界のあちこ ちに進出していくことになった。私たちの先祖が新大陸と交渉を持ったのはそう古いことではないが、明治維新がはじまる1868年には、「元年者」と呼ばれ る労働者たちがハワイへ向かっている。1885年のハワイへの官約移民、1896年にアルゼンチン、1897年のメキシコ、1898年のペルー、そして 1908年のブラジル移民へとつながっていく中で、日本人たちは新大陸のあちこちに自分たちの拠点「日本人街」*を築いていくのである。

ブラジルへの日本人移民は、1908年の笠戸丸移民781名(他に自由渡航者12名)からはじまるとされる。それ以前に、漂流民や海軍関係者、公使 館関係者、少数の自由渡航者や商人がいたことが知られているが、近代的で組織的なブラジルへの移民がはじまったのは、この笠戸丸移民からと見てよいだろ う。

ブラジルへの日本人移民は大部分が農業移民であったのにもかかわらず、第二次大戦前には、サンパウロ市に通称「コンデ界隈」と言われたれた日本人街 が存在した。その他にも、市営中央市場のあったカンタレーラ通りやピニェイロス地区に日系人の集中が見られた。また戦後は、コンデ界隈から数百メートル西 に上ったガルヴォン・ブエノ通りを中心に新しい日本人街が誕生した。このエリアは70年代以降、台湾・韓国・中国大陸からの移民を迎え拡大しながら、エス ニック商業地区として、それぞれの共生を実現した。これが現在、東洋街(Bairro Oriental)と呼ばれる一角である。同エリアは、日本人街から脱皮しつつ、サンパウロ市の観光ポイントとしても認知されたアジア系商業・観光エリア として賑っている。

この他にも、戦前には、サンパウロ州やパラナ州内陸部を中心に「植民地」と呼ばれる日本人集住地が生まれた。「都市」の定義に合うあわないはさてお き、1928年に開かれたバストス移住地などは、近代的な農業試験場や製材工場、修理工場、精米所、病院、9つの日系小学校、神社までを有し、「バストス 日本人村」と呼ばれた。同移住地は、農地だけでなく、セントロと呼ばれる市街地も形成していたので、広い意味で「日本人街」のカテゴリーに含めてよかろう と思う。

このコラムでは、最初に発した問いを意識しつつ、筆者が訪れたブラジルの日本人街の歴史と現在の姿を伝えていきたい。


注釈
* ここでいう「日本人街」とは、日本列島出身者で「日本人」(Japanese; japones; japonês)としてのアイデンティティを持つ者とその子孫を「日系人」とゆるやかに定義した上で、彼らが集中して住んだり、働いたりしているエリアの ことである。「日系人」という言葉との関連から、「日系人街」と呼ぶ方が適切なようであるが、「日本人街」の方が耳慣れているので、ここではこちらを取る ことにする。

*本稿の無断転載・複製を禁じます。引用の際はお知らせください。editor@discovernikkei.org

© 2007 Sachio Negawa

Brazil japantown sao paulo

このシリーズについて

「なぜ日本人は海を渡り、地球の反対側のこんなところにまで自分たちの街をつくったのだろう?」この問いを意識しつつ、筆者が訪れたブラジルの日本人街の歴史と現在の姿を伝えていく15回シリーズ。