ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2007/11/30/copani-knt/

基調講演「イノベーションの時代:ニッケイを知のパイプラインに」 (1)

第48回海外日系人大会・第14回パンアメリカン日系人大会
「海外日系社会の原点に立ち、その発展と役割を求めて」

はじめに

ただ今、ご紹介いただきました上智大学外国語学部の堀坂浩太郎です。昨年5月から海外日系人協会の常務理事を務めています。

専門は、ブラジルを中心としたラテンアメリカの政治経済です。ラテンアメリカを研究していますから、移住や日系人、あるいは在日日系就労者の存在に 関心を持ち続けてきました。とはいえ、この分野を専門にしてきたわけではありませんから、「常務理事に」と声をかけていただいた時には躊躇したしだいで す。しかしよく考えてみますと、情報や金融だけでなく、人の移動やそれに伴う文化的な面においても急速に世界が一体化する、いわゆるグローバル化の傾向が 顕著となった今日、日系のあり方もまた変化しているのではないか、と考えるにいたりました。私の知見があるいは皆さんにお役に立つのではないかと思い、お 引き受けしたしだいです。

米州の二世の方々を中心に1981年に設立されたパンアメリカン日系人協会との合同大会となりました本大会自体が、日系を取り巻く時代の変化を見事 に反映しているといえます。海外日系人協会にとっては、1968年5月に、ハワイ移住100周年を記念してハワイで開催しました第9回大会以来、実に39 年ぶり、2度目の日本国外での大会です。今回の合同大会から日本へ、そして世界に向けて発せられるメッセージは大きな意味をもつと考えられます。

こうした点も念頭において、本基調講演のタイトルは「イノベーションの時代:ニッケイを知のパイプラインに」としてみました。「知」とは英語の wisdom、ポルトガル語のsabedoriaのことです。日系人は、長年、日本と海外を結ぶ「架け橋」と位置づけられてきました。その役割はもちろん 当然のこととして続くわけです。しかしそれだけに留まらず、地球規模での人間の叡智が必要とされるイノベーション(革新)の時代にあって、日本および定住 国で培ってきた「知」を、Japonês、Japonés、Japaneseというニッケイのエスニシティをパイプに、相互に流すパイプラインとすること はできないか。このように問題提起をしたいと考えたしだいです。

その担い手となる人間類型としては、本大会の総合テーマである「海外日系社会の原点」、すなわち自らの手で未知の世界を切り開いてきた移住者像が浮かび上がってくるように思われます。

1.日系人大会:歴史を映す鏡

基調講演を準備するに当たり、海外日系人大会の歴史を改めて振り返ってみました。この48回大会は、年数で数えますと、1957年5月に開催された 第1回大会からちょうど半世紀が経過したことになります。最初の2回の大会は年数を置いて開催されたため、大会の回数と年数に差が出てきたものです。大会 の足跡は、まさしくこの50年間の日系人の歴史を映す鏡であったということができましょう。

第1回大会は、「国連加盟記念・海外日系人親睦大会」の名称で開かれました。講和条約から6年が経過し、前年の1956年には国連加盟を果たした日 本が第二次世界大戦の敗戦から立ち直り、国際社会に復帰したエポックメーキングな時でした。私事になりますが、父の赴任にともない、移民船に乗って私が初 めてブラジルに第一歩を記したのも実はちょうどこの時代に当たります。第1回大会開催のきっかけは、戦後直後、米国のキリスト教団体や労働組合などが組織 したアジア支援組織Licenced Agency for Relief in Asiaによる支援物資、いわゆる「ララ物資」に載せて、南北アメリカの日系人が戦災で疲弊した日本に熱い援助の手を差し伸べて下さったことにあります。

その努力に感謝しようと、多数の国会議員が動いて実現したものです。開会式には、衆参両院議長をはじめ、内閣の主要閣僚のほか、国会議員、知事や経 済界の代表が顔を並べていたそうです。戦争によって“世界の孤児”になりかけていた日本にとって、海外におられる日系人の存在がいかに心の拠りどころに なったことか、その思いの強さは想像に難くありません。

もちろん日本側には感謝の気持だけでなく、過剰な人口のはけ口として移民を復活させたいという政策的意図や、貿易の拡大や観光客の呼び込みで海外日系人の協力を得たいという切実な思いが働いていたようです。戦後の移民は1952年に始まっています。

その後の経緯を大会ごとに追っていく時間的余裕はありませんが、昨年の第47回大会までに出席された日系人の総数は1万7247人に上ります。この 数値には、日本在住の日本人の出席者は含めていません。1万7247人という数が多いか少ないか、会場の皆さまはどのように判断されるでしょうか。

この数の中には、日本に留学中の学生や何度も出席しておられる方も含まれています。それにしても、47回にわたって少ない年で2003年の130 人、多い年では1970年の1012人の日系人が日本に集まり、意見交換を重ねてきたことの意義は決して少ないものではありません。参加国は、少ない年で 5カ国(これは日本国外で初めて開いたハワイ大会の時でした)、多い年で2001年の21カ国です。日本を除いた数ですが、平均すると毎回、12.8カ国 から367人の日系人が参加してきたという数値になります。

時代の流れを追っていて気づいたことを以下、3点ほど申し上げます。

まず第1は、新世紀到来の声を聞き始めた1999年以降、日系人の出席者が目立って減ってきたことです。その一方で、参加国の数は増えています。第 40回大会から第47回大会までの8回の大会の平均参加者数は206人でした。第40回大会までの平均参加者数の半数強といったところです。半面、参加国 数の平均は17.3カ国で、第40回大会までの参加国数の平均よりも50%増えています。各開催年における日本を含めた世界情勢や、日本や参加国の経済情 勢も影響しているでしょう。ただ、これらの数字には、日系人コミュニティの「世代交代」と、その一方で日系人コミュニティの地域的な拡散という2点が反映 されているのではないかと、私には思われます。

第2に申し上げたいのは、海外日系人大会の運営主体である海外日系人協会の日本国内における位置づけです。過去半世紀の歴史は、海外日系人に対する 日本の「窓口」として本協会の地位が確立されてきた過程でした。しかしその一方で、1990年代以降は、国際情勢や海外日系コミュニティの変化、さらに日 本における行政改革の波を受けて、新たな役割を模索しつづけてきた過程でもあります。

海外日系人大会は、1962年の第3回大会から毎年開催されるようになりました。1964年の第5回大会からは「全国知事会」が加わり、協会トップ の会長を全国知事会会長が務めるようになります。65年の第6回大会以降、皇族が臨席されるようになり、99年の第40回大会では天皇・皇后両陛下がお出 でになりました。日系人の方々からは、交流の場として東京に「海外日系人センター」を設立して欲しいとの要望が再三出ていたことが記憶されています。

ところが日本に、ブラジルをはじめとする南米諸国から就労の目的で多数の日系人が来られるようになった1990年ごろから、協会を取り巻く環境は大 きく変わってきます。「失われた10年」と言われた日本の長期不況のなかで、企業も政府も構造改革を迫られ、それまでの成長過程でとってきた支援の姿勢を 継続することできなくなります。

また、集団移住が終ったあとも長年、移住者の支援機関であったJICA(国際協力機構)からは、多くの事業が海外日系人の事柄を専門的に扱う本協会 に託されることとなりました。現在、協会が取り扱っているJICAの委託事業は20を数え、その中には「海外移住資料館」などの運営もあります。残念なこ とに、99年には「日本海外移住家族連合会」が解散されましたが、これも時代の流れを反映したものです。その一方で、91年には就労日系人をサポートする 「日系人相談センター」が開設され、04年の「継承日本語教育センター」、05年の「国際日系ネット協議会」の設置とつづきます。

私がここで申し上げたいのは、海外日系人に対する日本の「窓口」としての地位を確立してきた協会ですが、グローバル化時代に即応した、すなわち海外 の日系人の方々はもとより、日本の国民が納得してくれる存在意義、raison d’êtreを示しつづけていかなれば、十分な活動ができない状況におかれているということです。本大会にご出席の皆さまから大いにお知恵をいただければ と望みます。

海外日系人大会の足取りをみてきて第3に言えることは、「要望」から「決議」へと参加者のスタンスが変わってきたことです。毎年開催される日系人大 会は、日系人の方々の懇親の場であると同時に、日本に対する要望を表明する場となってきました。要望が最初に採択されのが、1962年の第3回大会でし た。その時の要望を要約しますと、(1)海外センターの設立、(2)移住の促進、(3)移住者への融資、(4)日系人組織を通じた日本のPRなどからなっ ています。時代が経つにしたがって、要望には、高齢一世や二世への支援、在外被爆者の認知、在日日系人への就労環境の改善、フィリピンや朝鮮の日系人に対 する配慮、日本政府による在外選挙の実施などが加わってきます。

とりわけ毎回のように要望されてきたのは日本語教育の強化で、近年は、三世以降の世代を意識した日本語教育の重要性が、日系人のアイデンティティの継承問題と絡めて要望されているのが注目されます。

2004年の第45回大会からは、「要望」とならんで「決議」が採択されるようになりました。昨年の第47回大会の決議6項目の中から主な4項目を紹介しますと、

    (1) 海外移住、日系社会の歴史を振り返り、海外日系社会の新たな繁栄、発展への活力とします。

    (2) 若い世代を日系人として日系社会に積極的に参加するよう促し、日系社会の各種組織の世代交代を積極的に進め、その強化を目指します。

    (3) 日系人の日本語教育に全力を挙げます。

    (4) 日本での日系人の就労が日本の繁栄に大きく貢献して、日系社会と日本との絆をより強固にしていることを認識して、就労の生み出す様々な問題に取組み、就労がより容易に、かつ安定したものになるように一層努力します。

第47回大会の「要望」は、「ブラジル移住100周年祭への協力」と「在外選挙への参加促進策」の2項目でした。95年以降の大会では「要望」が毎回10項目以上に及んでいたことを考えますと、明らかにスタンスが変わってきているのが分かります。

日本が主催し、海外日系人はいわば「お客様」であった大会から、海外日系人の方々が主役の大会に変わり始めた表れではないか、と思われます。毎年恒 例となっています代表者会議の議長を、2004年の第45回大会からは海外日系人が務められるようになり、さらに一昨年の第46回大会には「ユース会議」 が設けられました。この流れが、今回のパンアメリカン日系人大会との合同大会へとつながってきているように思われます。

新しいワイン、すなわち日系の若い世代が参加しやすいように、新しい皮袋が用意され始めたのが、今大会の歴史的意義づけのように思われます。

その2 >>

© 2007 Kotaro Horisaka

コミュニティ 2007年 パンアメリカン日系人大会 パンアメリカン日系人大会
このシリーズについて

このシリーズでは、2007年7月18日から21日にブラジル・サンパウロで合同開催されたパンアメリカン日系人大会と海外日系人大会に於けるレポートやプレゼンテーションなどを紹介しています。

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執筆者について

上智大学外国語学部教授。イベロアメリカ研究所所長。国際基督教大学教養学部卒。ラテンアメリカ地域研究(ポリティカル・エコノミー)。日本経済新聞証券 部記者、国際開発センター研究助手、日本経済新聞産業部・外報部記者、中南米特派員(4年間)等を経て現職。ブラジルを中心にラテンアメリカ各国で取材お よびフィールドワークを行なう。メルスコール(南米南部共同市場)を中心とした米州における地域統合の動向分析、ラテンアメリカの産業・企業動向分析、ブ ラジルの政治・経済動向分析等を行う。

(2007年11月 更新)

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