ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/975/

委員会の開催案に対するJACLの反応(英語)

(英語)ご存知のとおり、JACLは分裂していました。最も強い抵抗があったのは、シアトルのグループからでした。彼らは、「ああ、また君たちは責任を回避するのか」と言いました。しかし、我々は責任回避ではなく、単なる現実的な対応と考えていました。政治には、現実的な対応が必要です。アイデアだけ出し、上手く行くことを期待するなんてできないのです。僕らは、委員会を通すルートは正しい選択だと思いました。全国大会でその案を提出するかどうかはジョン・タテイシ氏次第でしたが、彼は春の全国大会で発表しました。そして、我々の予想通り、大勢のシアトル代表団から大反対にあいました。実際シアトルの何人かはJACLを去りました。


リドレス運動

日付: 1998年7月1・2日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ミッチェル・マキ、ダーシー・イキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

クリフォード・ウエダ氏は、1917年1月14日、ワシントン州オリンピアの牡蠣養殖業者の家庭に生まれました。1941年から1945年にかけてウィスコンシン大学で学び、その後、ルイジアナ州ニューオーリンズのチュレーン大学医学部に進学しました。ウエダ氏は、カリフォルニア州サンフランシスコで医師となりました。

ウエダ氏が日系アメリカ人市民同盟で活動を始めたのは、1960年にサンフランシスコ支部で一世のオーラル・ヒストリー・プロジェクトの座長を務めたことがきっかけでした。ウエダ氏は、サンフランシスコ州立大学でエスニック・スタディーズの専門学部の立ち上げに貢献した他、「東京ローズ」として知られるアイバ・トグリ氏が、大統領恩赦を得てアメリカ国籍を回復するための支援者のひとりとして、重要な役割を果たしました。

1975年、医師を引退したウエダ氏は、フルタイムの活動家に転身しました。1977年、ウエダ氏は、全米JACLの代表として日系人強制収容に対する賠償運動に参加し、1978年から1980にはJACL会長となりました。様々な役割を通してコミュニティに貢献してきたウエダ氏は、2004年、84歳で癌のため亡くなりました。(2008年4月11日)

ノーマン・ヨシオ・ミネタ

法案の支持者を求めて(英語)

アメリカ合衆国元運輸長官(1931年生)

フランク・ヤマサキ

賠償金について(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

ノーマン・ヨシオ・ミネタ

ジム・ライトの支持を得ること (英語)

アメリカ合衆国元運輸長官(1931年生)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

Asian Americans for Actionへ参加してよかったこと(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

収容所経験のない一世に対する補償運動(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

時期を見計らって始めた補償運動(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

デール・ミナミ

コレマツ裁判が現代社会に与えた影響 (英語)

弁護士 (1946年生)

ビル・ホソカワ

証拠の強み (英語)

ジャーナリスト (1915 - 2007年)

チェリー・キノシタ

賠償金請求の必要性 (英語)

補償運動のリーダーの一人 (1923 - 2008年)

チェリー・キノシタ

苦しみを乗り越えて (英語)

補償運動のリーダーの一人 (1923 - 2008年)

バート・ナカノ

ワシントン政界の説得 (英語)

政治活動家 (1928-2003年)

ジョージ・ヨシダ

三世と補償運動(英語)

音楽家 (1922年)

ウィリアム・マルタニ

日系アメリカ人市民同盟に参加した理由(英語)

CWRICに関わった唯一の日系判事

ウィリアム・マルタニ

補償金額の算出(英語)

CWRICに関わった唯一の日系判事

ウィリアム・マルタニ

イノウエ上院議員による CWRIC委員の選考について(英語)

CWRICに関わった唯一の日系判事