ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/951/

三世と補償運動(英語)

(英語) 特に、補償運動の後半期において、私が知る限りでは、三世の運動への貢献はとても大きかったと感じています。

私が思うに、三世は自分たちの両親に起こったことを第三者の立場で見ていました。彼らは親の世代とは違う見方で物事を捉え、強制収容が不当だったことを理解していたと思います。だからこそ日系史に対する彼らの興味は…どう言えばいいでしょう?そうですね、補償運動をもたらした起動力そのものが、三世や他の人々の関心を、過去の出来事や関連している歴史的な事実に、向けさせたのだと思います。なぜ強制収容体験者たちは語らないのか、といった疑問が投げかけられ、そのことについて書き始める人が現れました。

また、若い学者たちは、口述歴史資料を収集し論文を書き、リサーチを行い、実に多くの取り組みが見られるようになりました。今では、私たちは膨大な強制収容の資料や情報を手にすることができます。(強制収容は)我々の人生のとても重要な部分を占めていたのです。


リドレス運動

日付: 2002年2月18日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: アリス・イトウ、ジョン・パイ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

ジョージ・ヨシダ氏は、1922年ワシントン州シアトルに生まれました。戦前、1936年にヨシダ氏は家族と共にカリフォルニア州ロサンゼルス東部に移り住みました。戦時中ヨシダ氏は、アリゾナ州ポストン強制収容所に収容されました。ヨシダ氏はビッグバンド・ジャズやスウィング・ジャズを聴いて育ち、強制収容所では「ミュージック・メーカーズ」というダンスバンドを結成し、ドラムを担当していました。収容者たちは、音楽を通して、自分たちが鉄格子に囲まれていることを忘れ、可能な限り日常を保つ努力をしました。1943年、ヨシダ氏は陸軍に徴兵されました。1945年に結婚したヨシダ氏は、カリフォルニア州バークレーに新居を構え、その後35年間ワシントン小学校の教員を務めました。

1987年に引退したヨシダ氏は、日系二世と三世のミュージシャンと共にスウィングバンド、「Jタウン・ジャズ・アンサンブル」を結成します。ヨシダ氏は、現在もドラム奏者として活躍していますが、彼にとって音楽は、戦時中の困難な時代を生きた、日系アメリカ人史を思い起こす手段となりました。またヨシダ氏は、「Reminiscing in Swingtime 1925-1960: Japanese Americans in American Popular Music」という本を執筆しました。 (2008年4月15日)

カズム・ナガヌマ

彼の妹は家族のために賠償金を確保した

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)