ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/946/

アメリカ社会への同化 (英語)

(英語) 英語を話す友人に囲まれた環境で育った私は、彼らと英語で話し、音楽やスポーツを楽しみ、一緒に図書館に行くようになりました。日系人のアメリカ社会への同化過程に、学校は一役買っていたと思います。一役というよりは、同化過程における学校の役割は、相当大きかったと言えます。また、映画の中にもアメリカ人になるためのインプットは多くあり、学校や友人からの影響だけではありませんでした。

通学途中に、最近見た映画やカウボーイ映画の話、ラジオで聴いた音楽の話、それから新聞から得たちょっとした情報などをきっかけに、日系以外の子と友達になることはよくありました。学校やラジオ、その他様々なところから影響を受けた結果、私たちがアメリカ社会に文化的に同化するまで、あまり時間はかかりませんでした。そしてそれは、社会的な同化とは、また別のものでした。


文化 教育 アイデンティティ

日付: 2002年2月18日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: アリス・イトウ、ジョン・パイ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

ジョージ・ヨシダ氏は、1922年ワシントン州シアトルに生まれました。戦前、1936年にヨシダ氏は家族と共にカリフォルニア州ロサンゼルス東部に移り住みました。戦時中ヨシダ氏は、アリゾナ州ポストン強制収容所に収容されました。ヨシダ氏はビッグバンド・ジャズやスウィング・ジャズを聴いて育ち、強制収容所では「ミュージック・メーカーズ」というダンスバンドを結成し、ドラムを担当していました。収容者たちは、音楽を通して、自分たちが鉄格子に囲まれていることを忘れ、可能な限り日常を保つ努力をしました。1943年、ヨシダ氏は陸軍に徴兵されました。1945年に結婚したヨシダ氏は、カリフォルニア州バークレーに新居を構え、その後35年間ワシントン小学校の教員を務めました。

1987年に引退したヨシダ氏は、日系二世と三世のミュージシャンと共にスウィングバンド、「Jタウン・ジャズ・アンサンブル」を結成します。ヨシダ氏は、現在もドラム奏者として活躍していますが、彼にとって音楽は、戦時中の困難な時代を生きた、日系アメリカ人史を思い起こす手段となりました。またヨシダ氏は、「Reminiscing in Swingtime 1925-1960: Japanese Americans in American Popular Music」という本を執筆しました。 (2008年4月15日)

フミコ・ハチヤ・ワッサーマン

隣人の庭で日本語学校を始めた母(英語)

日系三世、カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事

ミツエ・ヤマダ

詩を通して自分を表現(英語)

帰米二世、詩人、活動家(1923年生)

ミツエ・ヤマダ

「ノーーノー・ボーイ」となった兄の理由(英語)

帰米二世、詩人、活動家(1923年生)

ファン・アルベルト・松本

エスコバールについて(スペイン語)

日本在住の日系アルゼンチン人、二世(1962年生)

モニカ・タイシャ―

ニッケイの定義(英語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

サブリナ・シズエ・マケナ

カミングアウトが家族に与えた影響

(1957年生まれ) ハワイ州最高裁判所判事。