ディスカバー・ニッケイ

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先輩に触発されブラジル移民を決意

私がブラジルに来ようと思ったのは、まだ中学の3年生の頃です。で、今は昔の中学は今高校になってますが、その頃先輩が、うちの近くにいた先輩が中学を卒業して、ブラジルへ来たので、その刺激を受けてブラジルに行ってみたいとすごく考えたわけなんです。で、卒業して、しばらく家にいたんですが、私は長野県、長野県でほんの半年ぐらい家にいて、それから力行会、東京の力行会という海外学校、外国へ行くものをいろいろと準備をしたり、教えてくれる学校に入って。その学校に半年いて、それから船に乗ったんでしたが、ちょうど兵隊検査を済ました年ですから、まぁ20歳。20歳の年に船に乗って、ブラジルへやってきたわけです。当時、ブラジルに来るというのは、インドを回って、アフリカを回って、でブラジルへやってくるわけでしたが、46日かかってブラジルに着いたわけ。サントスへ着いたわけです。まぁ、それからはサンパウロで、まずなんと言って・・・とにかくあの一人ですから、えぇもちろん独身で、家族もいなければ、そう親類というほどの人もブラジルにいたかもしれないが、当時探すほどのこともなかったから。それで先輩に進められて寄宿舎に入ったんです。その寄宿舎というのが、今の文化センターが建ってるあの場所なんです。昔、古い建物がありましてね。それを潰して、文化協会、あのセンターができたわけです。


ブラジル 移住 (immigration)

日付:

場所: ブラジル

提供: Caminho da memória - 遥かなるみちのり. São Paulo, Brazil: Comissão de Elaboração da História dos 80 Anos de Imigração Japonesa no Brasil, 1998. VHS.

語り手のプロフィール

二木秀人氏は1911年7月に長野県に生まれました。1932年に「モンテビデオ丸」にて渡伯、1936年にSorocabanaの学校へ入学しました。1937年から42年にかけては大正学校の先生として勤務、閉校後も教師としての仕事を続けました。1946年には、力行会と共にサンパウロ学生会を設立。1953年にはハーモニー学生寮の創設にも貢献し、以来そこで27年間勤務しました。二木氏の功績は認められ、日本政府から勲五等瑞宝章を、ブラジルにおいては、São Bernardo do Campo名誉市民の称号があたれられました。 (1998年)

エンセン・井上

渡日の理由(英語)

日本在住のハワイ生まれの格闘家(1967年生)

エミ・笠松

大戦中の日系パラグアイ人の扱われ方(スペイン語)

二世日系パラグアイ人、研究者

ビル・ハシズメ

カナダの呼び寄せシステム(英語)

1952年まで日本からカナダへ帰国できなかった二世の日系カナダ人(1922年生)

ビル・ハシズメ

1954年にカナダへ帰国した理由(英語)

1952年まで日本からカナダへ帰国できなかった二世の日系カナダ人(1922年生)

飯野正子

一世女性とのインタビューを通して感じたこと

津田塾大学学長、日本人の日系史専門家

ロベルト・ヒロセ

ラテンアメリカにおける日系人の多様性(スペイン語)

二世日系チリ人、ビジネスマン(1950年生)

高木一臣

彼をアルゼンチンに留まらせたタンゴ(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

高木一臣

アルゼンチンへの渡航(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

外間良広

移住当初、言葉で苦労

沖縄出身、一世アルゼンチン人 (1917年生)

ルイス・ヤマダ

戦後、アルゼンチン定住を決意(スペイン語)

二世日系アルゼンチン人 (1929年生)

ルイス・ヤマダ

戦後アルゼンチンに戻る(スペイン語)

二世日系アルゼンチン人 (1929年生)

ドリス・モロミサト

移民の苦労神話(スペイン語)

詩人、沖縄系ペルー人 (1962年生)

カズム・ナガヌマ

月に一度入国管理局にチェックインする

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)