ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/788/

戦時中の苦難(スペイン語)

(スペイン語)苦難と食糧難、いかなるときでも人類にとって最も悲惨な体験ですが、あの時代の若者、特に苦労知らずの若者にとっては、結局プラスになる経験だったと思うのです。我々も毎日、食糧調達に苦労しました。米の節約もありましたし、米が手に入らなければ、ビスケットで代用し、豆類や、じゃがいもの代わりにさつまいもが配給されました。また、味付けをする塩もなく、特に砂糖は入手しにくいものでした。塩を代用するために海辺にいって海水を汲んで桶に入れて運びました。その海水で塩分を採っていたのです。砂糖は贅沢品でしたね。 こうした経験をした若者や子どもたちは、その後大人になってからも立派にやっていけたのです。苦労を体験していたからです。多くは私と同じ年頃かちょっと年配ですが、その多くは戦争で亡くなっています。いろいろなことがありましたが、そのような状況も地域や自治体、市町村によって異なっていました。空襲の被害を受けた町とそうでないところではやはり随分と状況が違っていたようです。


第二次世界大戦 配給 食品

日付: 2006年9月18日

場所: アルゼンチン、ブエノスアイレス

インタビュアー: タケシ・ニシムラ、リカルド・ホカマ

提供: アルゼンチン日系センター

語り手のプロフィール

ルイス・ヤマダ氏は、1929年、福井出身の移民の両親のもと、ブエノスアイレスに二世として生まれました。ヤマダ氏は少年期に日本へ渡り、大戦中の日本を生き、戦後アルゼンチンへ戻りました。戦前、戦中、戦後の日本を体験しました。今日、ヤマダ氏は、アルゼンチン国内で最も権威ある組織の1つ、全アルゼンチン風景画学会(Instituto Argentino de Paisajismo)の代表を務めています。(2006年9月18日)

グレース・ウエハラ

収容所の補償運動の達成と教育(英語)

(1919 - 2014年)日系アメリカ人の強制収容所に対する補償運動や公民権運動で活躍した活動家。

山野愛子ジェーン

お正月料理(英語)

日本在住、カリフォルニア生まれのビジネスウーマン。祖母である山野愛子の後を継ぎ、美容界で活躍。(1964年生)

ワカコ・ヤマウチ

真珠湾攻撃後のカリフォルニア州オーシャンサイドでの日系アメリカ人学生としての経験(英語)

アーティスト・劇作家。(1924 - 2018年)

ウェイン・ヨコヤマ

唯一の日本文化:食べ物(英語)

南カリフォルニア出身の在日日系人(1948年生)

ペギー・ニシムラ・ベイン

アメリカ料理を身につけたきっかけ(英語)

ワシントン州出身の二世。ツーレレイク強制収容所へ収容後、シカゴへ再転住。(1909年生)

フランク・ヤマサキ

ピュアラップ集合センターで失った青年期の能天気さ(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

フランク・ヤマサキ

ほこりだらけのミニドカ収容所の記憶(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

フランク・ヤマサキ

徴兵拒否の決意(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

ジョージ・アズマノ

真珠湾攻撃後にアメリカ軍から除隊(英語)

アズマノトラベル創設者

ジョージ・カツミ・ユザワ

JACLの全米書記マイク・マサオカの1942年のスピーチへの反応(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

ジョージ・カツミ・ユザワ

1942年10月の妹の死(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

ジョージ・カツミ・ユザワ

戦中のニューヨーク市での最初の印象(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

ジョージ・カツミ・ユザワ

真珠湾攻撃後の近所の同情(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

ビンス・オオタ

アジア系とのかかわりをあまり持たずに東海岸で育つ(英語)

在日日系アメリカ人デザイナー

ジーン・アクツ

徴兵反対者に対する日系コミュニティの反応(英語)

徴兵忌避者(1925年生)