ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/713/

少数の日本人家族と共に育って(スペイン語)

(スペイン語) 私はラ・クルス市という、当時は小さな田舎町だったところで生まれました。今ではもうちょっと大きな町になっていますね。キジョタからとても近く、その地域には日本人が何人かいましたが、どうやらアロソネ・スエゴという人が、その地域に住むようになったこととつながりがあるようですね。その人は、他の日本人に来るよう勧めていたんです。実際に、私の母方の祖父は、松山の学校で彼と同級生だったことがあり、ソネさんのいるところにやって来たんです。そんなわけで、キジョタ、カレラには、その頃は、比較的多くの人たちがいました。1930~40年ごろの話しですね。それで、私は自分の家族だけではなく、他の日本人と一緒にいる機会があったのだと思います。もちろん、チリの場合、日本人の移民が一番集中しているのはサンティアゴすよ。


チリ コミュニティ 移住 (migration)

日付: 2005年10月7日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: アン・カネコ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ロベルト・ヒロセ氏は1950年8月8日チリのキジョータで生まれました。子供時代を農村で過ごし、チリに定住していた何人もの日本人と知り合いました。小学校から高校までキジョータやコピアポで勉強しました。コピアポでは鉱山採掘の仕事で一時的にチリに来ていた日本人たちと知り合う機会がありました。 1968年から1973年までサンティアゴにあるチリ大学で電気工学を学びました。そして日本の文部省の奨学金を得て6ヶ月間大阪外国語大学で日本語を学んだ後、1年間広島大学で研究生として電気工学を勉強しました。 チリ三井株式会社機械部で10年間働き、1986年に漁業用浮き輪製造会社である「インドゥストリアス・ビニコン」へ転職し現在に至っています。2002年にビニコンの多角化を指揮する責任者となり、チリ北部のカルデラでアワビの養殖センターを統括しています。 チリの日系人活動において、彼は1968年から1986年までチリ日系日本慈善協会(Sociedad Japonesa de Beneficencia)、そして1987年から現在までバルパライソ地域日系人組合(la Corporación Nikkei de la Región de Valparaíso)(前バルパライソ日系人連合: Agrupación Nikkei de Valparaíso)に積極的に関与しています。(2007年5月2日)

ミシェル・ヤマシロ

日本人がペルーへ移住した理由 (英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

ミツエ・ヤマダ

写真花嫁の集団と一緒にアメリカに渡った母(英語)

帰米二世、詩人、活動家(1923年生)

ミツエ・ヤマダ

日本から到着した母のためにアメリカの洋服を買った父(英語)

帰米二世、詩人、活動家(1923年生)

ファン・アルベルト・松本

在日日系コミュニティの変化

日本在住の日系アルゼンチン人、二世(1962年生)

モニカ・タイシャ―

日系コミュニティ最大のイベント、敬老会(英語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

ミア・ヤマモト

アジア太平洋諸島法学生協会の共同設立

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士

ミア・ヤマモト

高校における黒人差別の理解

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士

ミア・ヤマモト

社会正義のために立ち上がる

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士