ディスカバー・ニッケイ

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日本語と価値観をもとに育つ(英語)

(英語)家では日本語しか話しませんでした。前にも申し上げたとおり、私は学校に通うようになって初めて英語を学びました。父は夜間学校に通って、英語を勉強したので、英語の読み書きはかなり出来ましたが、母は全く駄目でした。ですから、母は私達には日本語を使うようにいつも言っていましたね。それで母からは日本語という言葉だけでなく、日本人の心、価値観も学びました。

例えば、年上を敬うこととか、「恩」という概念がありますよね。夕食前に家で遊んでいる時でも、父が帰宅する前には、きちんと顔を洗って、身なりをきれいにして、父が帰宅したら、「お帰りなさい」って言うようにいわれました。「外で働いて、お父さんは疲れて帰ってくるのだから」と母は言うんです。それに、「大人はいろいろ難しいことを抱えているんだから」って言うんですね。だから、「帰宅したときには、父を笑顔で迎えて、家に戻ったことに喜びを感じてもらわなくちゃ」、と言うんです。これは素晴らしい教えだと思います。また、誰か出かけるときは、必ず玄関にまでいって、「行ってらっしゃい」というんです。母はいつもこういうことを守っていましたね。

こういった色々細かなことでね、私の人生で、自分の価値観を育ててゆくという点では、随分役立ちましたね。


美学 文化 家族 アイデンティティ 形而上学 心理学 認識論 価値

日付: 2006年5月31日

場所: 米国、ハワイ州

インタビュアー: アケミ・キクムラ・ヤノ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

マーガレット・オダ博士は、ハワイ州ビッグアイランド(ハワイ島の愛称)のワイレアで生まれました。オダ博士は2世で、両親は広島からの移民でした。彼女の父は、後に副社長となったワイレア製糖工場(Wailea Milling Company)のさとうきび農園で働いていました。

オダ博士は、ミシガン州立大学で数学の修士号を取得し、1977年にはハワイ大学マノアキャンパスで教育学の博士号を取得しました。オダ博士は1951年に初めて教鞭をとり、ハワイ全土の公立の小中高等学校で教頭や校長の役職を得るに至りました。その後、博士はハワイ州教育庁の副教育長を3年間務め、1980年代にはホノルル地区の教育長を2期務めました。1990年代の後半に引退するまで、行政の立場から公立教育に従事しました。

オダ博士の教育分野での慈善活動は有名で、皇太子奨学金、ハワイ・プレパラトリ・アカデミー、ハワイ日本文化センター(Japanese Cultural Center of Hawai‘i)などの、地域に根ざした団体の評議員を務めてきました。オダ博士は過去には全米日系人博物館ハワイ諮問委員会の議長であり、現在は博物館の理事に就任しています。(2007年4月6日)

キシ・バシ

日本人でもありアメリカ人でもある(英語)

音楽家、作曲家、ソングライター(1975年生) 

キシ・バシ

両親は新一世(英語)

音楽家、作曲家、ソングライター(1975年生) 

ミシェル・ヤマシロ

ペルー系沖縄人としての両親のアイデンティティ(英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

ミシェル・ヤマシロ

沖縄文化の理解(英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

ミシェル・ヤマシロ

本州の人々の沖縄人に対する偏見(英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

ミシェル・ヤマシロ

共感する米国的な価値観(英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

ミシェル・ヤマシロ

三か国語を使った沖縄での活動(英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

ミツエ・ヤマダ

詩を通して自分を表現(英語)

帰米二世、詩人、活動家(1923年生)

ファン・アルベルト・松本

エスコバールについて(スペイン語)

日本在住の日系アルゼンチン人、二世(1962年生)

モニカ・タイシャ―

ニッケイの定義(英語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

カズム・ナガヌマ

妹のキヨは彼にとって第二の母親のような存在だった

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

二宮 正人

奥様とのなれそめ

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)

サブリナ・シズエ・マケナ

カミングアウトが家族に与えた影響

(1957年生まれ) ハワイ州最高裁判所判事。

レイコ・T・サカタ

親の結婚

(1939年生まれ) 戦時中に家族とともに自発的にユタ州ソルトレイクシティに移住した実業家。