ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/650/

戦後の差別(英語)

(英語)5、6歳位だったでしょうか、私は、幼稚園から小学校1、2年生でした。たくさんの地元の子供たちから「ジャップ」と呼ばれました。「友達はみんな、おまえたちに殺されたんだ」なんて言われて。とても辛い時代でした。それで、もう自分の人種がものすごく嫌になって、すごく大変でしたよ。私は何もしていないのに、突然皆に憎まれるなんてね。殴られましたし、そりゃあひどいものでしたよ。たしか中学2年生か3年生くらいで大分収まりました。

まあ、時間が経てば人は忘れていきますからね。私ではなくて、そういうことをする側の人たちは、忘れていくのでしょうね。彼らは、亡くなったたくさんの親戚のことを想って…何と言うか、私にはよくわかりませんけどね。まあ、彼らは誰かを責める訳です。今で言えば、アラブ系の人たちと同じですね。9.11の後、彼らはひどい目にあわされました。誰が敵かわかりませんから、単に人種で判断されるんです。朝鮮戦争、ベトナム戦争もありました。誰が敵かわからないんですよ。今だにそうじゃないですか?


差別 対人関係 人種差別

日付: 2006年6月1日

場所: 米国、ハワイ州

インタビュアー: アケミ・キクムラ・ヤノ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

コバヤシグループ株式会社(Kobayashi Group LLC)の創設者、バート・A・コバヤシ氏は1944年11月10日にハワイ州ホノルルに生まれました。日系アメリカ人3世で、両親共にハワイ出身です。コバヤシ氏が19歳の時、父アルベルトが病に倒れ、父の経営していた建設会社を突如継ぐことになりました。当初は経営に四苦八苦していましたが、後に経営のコツをつかみ、ハワイ最大の建設会社まで成長させました。1997年にはこの建設会社を社員に売り、後にKobayashi Development Groupを創設します。定年まで会長を務め、現在は息子のBJ・コバヤシを社長とし、自らは顧問を務めています。また、ハワイ大学財団創設といった彼の慈善事業はハワイでもよく知られており、数々のコミュニティや教育機関の理事としても活躍しています。 (2007年3月1日)

サム・ナイトウ

真珠湾攻撃で中断された大学生活(英語)

二世ビジネスマン。Made in Oregonの店をオープン。(1921年生)

サム・ナイトウ

第2次戦中の就職の困難さ(英語)

二世ビジネスマン。Made in Oregonの店をオープン。(1921年生)

ポール・テラサキ

戦後シカゴでの体験(英語)

組織移植・臓器移植の分野においての医療研究の第一人者。(1929年生)

トシオ・イナハラ

4C-敵性外国人-に分類(英語)

血管外科医(1921年生)

ジョージ・アズマノ

真珠湾攻撃後にアメリカ軍から除隊(英語)

アズマノトラベル創設者

アルフレド・カトウ

戦後リマでの体験談(スペイン語)

ジャーナリスト(1937生)

アルフレド・カトウ

日本人に対するステレオタイプ: 昔と今(スペイン語)

ジャーナリスト(1937生)

ジョージ・カツミ・ユザワ

JACLの全米書記マイク・マサオカの1942年のスピーチへの反応(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

ジョージ・カツミ・ユザワ

戦中のニューヨーク市での最初の印象(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

ジョージ・カツミ・ユザワ

真珠湾攻撃後の近所の同情(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

飯野正子

日本人移民に興味を持ったきっかけ

津田塾大学学長、日本人の日系史専門家

PJ・ヒラバヤシ

子供のころ体験した差別(英語)

サンノゼ太鼓の共同設立者・製作監督

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

オーシャンパークでの唯一の日系人家族(英語)

作家(1934年生)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

映画制作で行った小細工(英語)

作家(1934年生)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

終わることを知らない人種差別 (英語)

作家(1934年生)