ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/613/

別々に収容された家族(英語)

(英語)父がとても重い病気にかかり、容態が悪化しているという知らせが届きました。そこで私は父のいる収容所(アーカンソー州ジェローム)に移らせて欲しいと請願したんです。その時私にはマンザナー(カリフォルニア州)で最初に生んだまだ赤ちゃんの娘がいて、まずはその子を連れ(2人だけで)父に会おうと収容所を移りました。というのも(WRA:戦時転住局が)主人の転住を許可してくれなかったからなんです。(夫に)「容態が悪いのはあなたの妻の父親であって、あなた自身の父親ではない」と言ってね。ですから私と主人はいったん離ればなれになることになったんです。最悪の事態が起きたのは、(マンザナーを離れた)その直後でした。私がアーカンソー州の収容所に着いたちょうどその時、父が救急車に乗せられ(収容所の)病院に運ばれていくではありませんか!父は(赤ちゃんだった)娘の顔をちらっと見ましたが、娘の顔を見たのはそれが最初で最後となってしまいました。10日後のクリスマスの朝、父は収容所で息を引き取りました。これは私たち家族にとって本当に悲しい出来事でした。


家族 投獄 監禁 第二次世界大戦 第二次世界大戦下の収容所

日付: 1998年8月26日

場所: 米国、バージニア州

インタビュアー: ダーシー・イキ、ミッチェル・マキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

アイコ・ヨシナガ・ハージックは1924年、カリフォルニア州サクラメントに生まれました。熊本県出身のヨシナガ一家は、1919年に渡米し、世界恐慌の頃にカリフォルニア州ロサンゼルスへ引っ越しました。

第2次大戦中、初めは夫の家族とともにマンザナーへ収容されていました。その後、夫と離れ、生まれたばかりの娘と共に、実父母の収容されていたアーカンソー州ジェローム収容所へ転送されました。1944年、ヨシナガ一家は収容所を出てニューヨークへ移り住みました。その後、夫と離婚しますが、2世兵士と再婚しました。アイコは、占領下の日本で従軍することになった2番目の夫とともに、日本へ移り住みました。そこで夫の同僚であるジャック・ハージックと出会い、その後1978年に彼と結婚しました

アメリカ帰国後、Asian Americans for Actionの活動に参加するようになりました。補償運動の際は、夫ジャックとともにワシントンDCの国立公文書館で資料を集め、とても重要な役割を果たしました。公文書館からの資料はフレッド・コレマツ、ミノル・ヤスイ、ゴードン・ヒラバヤシの判決を取り消すための再審請求(coram nobis)でも重要な証拠としても提示されました。また、アイコはCommission on Wartime Relocation and Internment of Civilians(戦時中の民間人転住と収容 に関する委員会)の主要な調査員として任命され、法務省のRedress Administration(補償運動管理局)で補償金の受け取りが可能な個人を特定などに携わりました。 

2018年7月18日、93歳で亡くなりました。(2018年7月)

ミア・ヤマモト

父親の影響

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士

二宮 正人

奥様とのなれそめ

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)

レイコ・T・サカタ

親の結婚

(1939年生まれ) 戦時中に家族とともに自発的にユタ州ソルトレイクシティに移住した実業家。

ベン・サコグチ

キャンプから帰ってきて

(1938年生まれ) 日系アメリカ人の画家、版画家