ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/597/

日本ではアメリカ人として、アメリカでは日本人として踊る (英語)

(英語) (日本では)普通の学校のように、朝早くから学校に行き、三味線、鼓、踊り、演技、化粧の全てを学ばなければなりませんでした。その上、華道を学んで・・・お免状をすべて頂きましたし、お免状は全部持ち帰ってきました。でも・・・学校では、私のことが気に入らないと、いつも「アメリカに帰りなさいよ」と言う人がいました。また舞台では、グループで演奏していて誰かが間違えると「ちょっと、アメリカさん、アメリカさん!」「前に来なさい、前に来なさい」と私が呼ばれるんです。間違えたのは私ではなく、他の人なのに。何かあるといつも「アメリカさん」と言われるので、私の名前は「アメリカさん」になってました。やはり日本では、私はアメリカ人なんですね。想像つきますか?でもいつも間違える女の子からは「ありがとう。ありがとう」と(お礼を)言われました。私はいつも代わりに怒られても「間違えたのは彼女です」とは絶対に言いませんでしたからね。そのお陰で、みんな私のことを好きになってくれました。ですから日本では(周りの人たちと)うまくやれました。

I*:「日本では(周りの人たちと)うまくやれた」とおっしゃっていますが、心の中では辛かったのではないですか?

はい、確かに辛かったです。でも周りとどうやってうまくやっていくかを考えないとダメですから(仕方がありません)。その後、名取を取得し藤間勘須磨となり、私は「お師匠さん」になりました。つまりアメリカに戻った時は「お師匠さん」だったので、私は日本人とみなされたんです。ここアメリカでは日本人、日本では「アメリカさん」。だから日系アメリカ人と言われるのね(笑)。

*“I” はインタビュアー(ナンシー・アラキ)


芸術 ダンス 差別 アイデンティティ 対人関係

日付: 2004年11月30日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ナンシー・アラキ、ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

藤間勘須磨師匠(本名スマコ・ハマグチ)はカリフォルニア州サンフランシスコに生まれました。9歳のときロサンゼルスで歌舞伎を習い始め、その後ハワイの交換プログラムに参加しました。プログラム終了後、ロサンゼルスへは戻らず、斯界の歌舞伎役者6代目尾上菊五郎の元で学ぶために渡日。菊五郎の紹介で彼の師である藤間勘十郎のもとで藤間流を学びました。舞踊の基本だけでなく、三味線、鼓、演技、化粧なども学び、1938年藤間流の名取りを取得しました。

名取り取得後アメリカへ帰国し、父の経営するロサンゼルスのホテルでダンス教室を開きます。しかし、第2次大戦勃発ゆえに勘須磨師とその家族はアーカンソー州ローワーでの収容を余儀なくされました。少しして、政府より日本舞踊を教えることを許されたため、戦中はさまざまなキャンプで日本舞踊を教えました。戦後はロサンゼルスへ戻り、日本舞踊を教えるかたわら、自らの公演も再開しました。現在、彼女は2000人以上の弟子を持ち、その中の43人は名取りを取得しています。

1985年、日本政府より宝冠章、1987年にはNational Endowment for the Arts' National Heritage Fellows Award(米国版重要無形文化財)を受賞しています。また、2004年に全米日系人博物館よりCultural Ambassador Awardを受賞しています。

2023年2月、104歳で亡くなりました。(2023年6月)

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