ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/502/

JACLの全米書記マイク・マサオカの1942年のスピーチへの反応(英語)

(英語)I*:マイク・マサオカ氏がロサンゼルスで行った講演のことは覚えていますか?

ええ。マサオカ氏は、サンフランシスコで合衆国政府当局との会合に出席した後、私たちが居たリトル東京の第一学園ビルに来ました。そして彼は、こう言ったのです。「うらみつらみを抱くことなく、我々は立ち退こう!」それを聞いた私は、「一体この男は、ソルトレイクシティーかデンバーか知らないけれど、どこからかやって来て、ロサンゼルスに土地を持ち商売をしている私に向かって何を言うのだ。」と思いました。立ち退きに対して、私は強い憤りを感じました。

* "I" はインタビュアー(ダニエル・H ・イノウエ)

 


差別 対人関係 第二次世界大戦

日付: 2006年3月2日

場所: 米国、ニューヨーク州

インタビュアー: ダニエル・H・イノウエ

提供: Asian/ Pacific/ American Studies Program and Institute, Department of Social and Cultural Analysis, New York University.

語り手のプロフィール

ジョージ・カツミ・ユザワ氏は1915年カリフォルニア州ロサンゼルスに生まれました。彼と彼の家族は1942年にコロラド州のアマチ収容所へ収容されました。1943年にユザワ氏はニューヨーク市へ転住、彼の家族も1944年に合流しました。その後、アメリカ陸軍へ志願し、2年間陸軍情報部に従事しました。除隊後はニューヨーク市で輸出業を営んでいましたが、彼の父の園芸業を助けるため自らのビジネスを廃業しました

1970-80年代にかけて、ユザワ氏は米国日系人市民協会ニューヨーク支部にて公民権運動に積極的に参加しました。ビジネスや公共交通機関の前に日本人を侮辱するサインを掲げた人々に対して訴訟を起こし、さらには高田賢三(Kenzo)論争やILGWU(国際婦人服労働組合)による地下鉄の反日ポスターキャンペーンでは先鋒をきって抗議しました。これらのキャンペーンの結果、二世活動家たちと共にAsian Americans for Fair Media, Inc.を立ち上げました。また、彼は賠償金運動にも積極的に参加し、1981年にニューヨーク市で行われたCWRIC(戦時中の民間人転住と収容 に関する委員会)の公聴会を実現させました。

ユザワ氏はブルックリン植物園での第1回桜祭りを開催し、さらには老人に対し住居や介護をバイリンガルで提供するために、非営利団体JAHFA(日系高齢者援護会)を設立しました。20世紀の第4半期はコミュニティの老人のニーズに応えるため尽力を注いでいます。

2011年10月、ユザワ氏はなくなりました。(2011年10月)

ミア・ヤマモト

人種差別が彼女を初のトランスジェンダーの弁護士に育てた

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士

二宮 正人

戦時中に厳しく規制された外国語教育

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)