ディスカバー・ニッケイ

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ゴードン(兄)から聞いた刑務所での両親の経験 (英語)

(英語) ゴードン(兄)の話では、ある晩看守が「訪問者だぞ」というので顔をあげると、そこには父が立っていたそうです。兄のいる牢屋に移ってきたんです。母は女性刑務所に入れられていたので母には会えませんでした。母はキリスト教徒だったので、売春婦や窃盗犯などの人たちと一緒に放り込まれさぞショックだったことでしょう。

母はほぼ独学でピアノをマスターし・・これが母のすごいところですね・・農場の家屋のパーラーには大きな四角いグランドピアノがあって、2種類の歌曲を弾けたのを覚えています。ご近所の方から、確か娘さんだったと思いますが、ピアノの基礎だけ教わって、スティーブン・フォスターの歌曲や賛美歌を弾けるようになっていました。それで母は刑務所のレクリエーションルームに行き、ピアノを弾きフォスターの歌を唄ったのです。すると皆が涙をながしながら周りに集って、そのあと楽しく歌を唄ったそうです。

ゴードンは母とずっと顔を会わせておらず、裁判の時に母が法廷に入ってきてそこで初めて顔を見たそうです。「まるで今美容院から出てきたかの様だったよ。きちんとした身なりをしていてね。」と話していました。刑務所の女性達は自分達の化粧品道具を集めて、裁判のために母にお化粧をしてあげたんです。母は刑務所の女性の姿勢まで変えてしまったのですね。


家族 ゴードン・ヒラバヤシ 刑務所 (prisons) 抵抗

日付: 2004年1月7日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: アート・ハンセン

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ジェームス・ヒラバヤシ氏は、20世紀初期に米国北西部太平洋岸に移住した勤勉な農民の息子として生まれました。1942年、当時高校3年生だったヒラバヤシ氏は、パインデール集合センターに一時的に拘留されましたが、その後北カリフォルニアのツールレイクの収容所へ移送、抑留されました。

第二次世界大戦後、シアトルのワシントン大学で人類学の文学士号(BA)と文学修士号(MA)取得し、その後ハーバード大学で博士号(Ph.D)を取得しました。現在はサンフランシスコ州立大学の名誉教授であり、合衆国で初めて設立された民族研究学部の学部長を務めました。そのほかにも、東京大学やアルバータ大学(カナダ)、アーマド・ベロ大学(ナイジェリアのザリア)での研究・教歴を持っています。

ヒラバヤシ氏は、2012年5月1日、85歳で亡くなりました。(2014年6月)

フランク・ソギ

日本の親戚を訪問(英語)

弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)

バート・A・コバヤシ

家族優先(英語)

Kobayashi Group LLCの.創設者 (1944年生)

バート・A・コバヤシ

白人家庭に受け入れられて(英語)

Kobayashi Group LLCの.創設者 (1944年生)

ジョージ・ヤマダ

戦前のワシントン州スポケーンで家族経営していたホテルでの鉄道労働者たちとの思い出 (英語)

初生雛鑑別師 (1923年生)

マーガレット・オダ

日本語と価値観をもとに育つ(英語)

(1925 - 2018)ハワイ出身の教育者、二世

ロベルト・ヒロセ

日本の習慣(スペイン語)

二世日系チリ人、ビジネスマン(1950年生)

ポーラ・オヨス・ハットリ

日本文化への興味 (スペイン語)

日系アルゼンチン人、三世

ポーラ・オヨス・ハットリ

祖父との思い出 (スペイン語)

日系アルゼンチン人、三世

ポーラ・オヨス・ハットリ

祖父を理解するために日本語を勉強 (スペイン語)

日系アルゼンチン人、三世

外間良広

人生でもっとも印象に残っている日

沖縄出身、一世アルゼンチン人 (1917年生)

外間良広

奥さんとの出会い

沖縄出身、一世アルゼンチン人 (1917年生)

高木一臣

日本では親戚も少なく(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

ベナンシオ・シンキ

家での規律と躾 (スペイン語)

日系ペルー人画家 (1932-2016年)

ゴードン・ヒラバヤシ

良き息子として(英語)

大統領令9066の合憲性について抗議(1918-2012)

ゴードン・ヒラバヤシ

憲法の無視(英語)

大統領令9066の合憲性について抗議(1918-2012)