ディスカバー・ニッケイ

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2度の3年契約を経てアメリカへ

日本調理士組合というのがありまして、そこで私は三長会の調理士組合に入りました。そこで修業というか、まあ、いろんなところに、「はい、今日はあそこに行ってきなさい」、「あそこで人が足りない」といったら行く。そういう職業安定所みたいな斡旋所に連れて、そこでいろいろな所に行きました。まあ、都内も行きました。県外も行きました。そういった道を歩んでいる間に、「おい、豊島。おまえ、アメリカにこういうのがあるけど、行ってみないか」という話が舞い込んで来ました。

その前に、代々先輩方がアメリカに68年ぐらいからもう行ってるんだそうです。そして私が3回目の交代で73年、当時25歳でしたけど、73年の3回目の時は「どうですか、ロサンゼルスという所にあるから行ってみないか」という具合でこちらに参りました。まぁ2年と思ったんだけど、3年ていう、長いんだよーという厳しいあれで来ましたけど、非常に、まあ都内を回っていたせいか、「古い町並みなんだなぁ、ロスは」という印象を受けて、少ない寿司屋さんがありまして、その当時は東京會舘というお店だったんですけど、そこで3年間、頑張らせてもらいました。

3年終わりまして、契約も頑張って終わりました。で、帰らなければいけない。で、一旦帰りました。1年もしないうちにまた連絡が来まして、「アンコール来てくれないか」って事務所から。「お前が出なきゃダメ」ということで、また同じ東京會舘に3年契約を結んでまた来ました。

ですから当時、契約というのは今の野球みたいな感じのベースボールみたいな感じだったんだなって、今振り返ると契約をいただいて我々も来てたんだと振り返ると懐かしく思っていました。


アメリカ ロサンゼルス カリフォルニア 契約 寿司職人 法的手段

日付: 2016年4月16日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 渡辺 美津重

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1949年8月21日、青森県に生まれる。1962年16歳で上京し、夜学へ通いながらすし屋に住み込みをし、板前の修業をする。その後、三長会という調理師組合に入り、数々のすし屋を転々とする。1973年、ロサンゼルスの東京會舘という店と3年契約をして渡米。契約終了後、一時帰国するが、その後も東京會舘から声がかかり、再び3年契約を結んでロサンゼルスへ来る。契約終了後、アメリカへ残ることを決め、1980年にロサンゼルスのリトル東京に「鮨元」を開店。また南加青森県人会の創設にも尽力し、ロサンゼルスにおける日系人コミュニティの発展に貢献しているほか、2007年には初代ねぶた囃子保存会会長を務めるなど、アメリカにおける日本文化継承活動に力を注いでいる。2015年、在ロサンゼルス日本国総領事館より総領事表彰を受賞した。(2018年5月)

サカエ・シゲカワ

地域によって違った差別の状況 (英語)

南カリフォルニアの産婦人科医(1913-2013年)

スミコ・コザワ

家族経営の花屋で働き、グレタ・ガルボと出会う (英語)

花屋 (1916-2016年)

堀切 エドワード・徹

出生地(英語)

帰米二世(1929年生)

堀切 エドワード・徹

ホテル経営を始めた父

帰米二世(1929年生)

堀切 エドワード・徹

アメリカで働く(英語)

帰米二世(1929年生)

大友 八郎

娘が日本になじめず、再度アメリカ行きを決意

溶接業を営む新一世(1936年生)

大友 八郎

アメリカで直面した偏見

溶接業を営む新一世(1936年生)

サワコ・アシザワ・ウチムラ

ロサンゼルスへ移住(英語)

フィリピン生まれの引揚者、後にアメリカに移民(1938年生)

高塩 明

初めて来たときのアメリカの印象

新一世、居酒屋と割烹のレストラン「本多屋」の社長

高塩 明

海外に憧れ調理師免許を取得

新一世、居酒屋と割烹のレストラン「本多屋」の社長

高塩 明

移住当初の生活

新一世、居酒屋と割烹のレストラン「本多屋」の社長

イワオ・タカモト

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ウォルト・ディズニーとハンナ・バーベラの日本人アニメーター(1925-2007)