ディスカバー・ニッケイ

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ヤマトコロニーでの生活 (英語)

(英語)リビングストンでの生活や、当時経験したことをお話ししましょう。私たちが住んでいたのは、ヤマトコロニーと呼ばれる地域でした。リビングストンから2マイルほど離れていました。ヤマトコロニーの中心部には幼稚園や教会があり、住民の親睦活動もそこで行われていました。

5歳くらいの時のことでした。ある日、「ヤチ!」という父の声で目を覚ましました。当時、父は私を、「ヤチ」 または「ヤチオ」と呼んでいました。6歳で公立の小学校に通い始めるまで、私は「フレッド」ではありませんでした。「ヤチ!ヤチ!起きて馬を外に出すんだ!」父が言いました。一体何が起きたのか分かりませんでした。「納屋が火事だ!」と父が言うのです。深夜に誰かが火炎瓶を投げ込んだのです。納屋に火が付き、干し草が燃えていました。馬を逃がさなければ焼け死んでしまいます。火を消すために父が水を汲みに行く間、私が馬を逃がさなければなりませんでした。その時のことは今でもはっきりと覚えています。

子供が育つには良い環境ではありませんでした。町に出入りする時に通るハイウェイには、「ジャップ立ち入り禁止」という看板が立っていました。穏やかではないですよね。そんな社会環境、経済状況で育ちました。ですから、一世の農民がこのような状況に耐え、そして成功したというのはものすごい功績だと思うのです。


カリフォルニア州 リビングストン アメリカ 大和コロニー(カリフォルニア州)

日付: 2005年3月4日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: フローレンス・オチ、アート・ハンセン、西村陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

フレッド・ヤイチオ・ホシヤマさんは6人兄弟の長男として、カリフォルニア州リビングストンのヤマトコロニーへ入植した日系一世の両親の元に生まれました。父親は、ホシヤマさんがまだ8歳の時に亡くなり、一家はその後も苦労しながら農業を続けましたが、結局農地を手放し、1929年にサンフランシスコに移り住みました。ホシヤマさんは、1941年にカリフォルニア大学バークレー校で文学士を取得しましたが、その後サンフランシスコのタンフォラン集合センターに送られ、1942年にはユタ州のトパーズ“戦争移住センター”に数千人の日系人と共に収容されました。ハワイ州真珠湾の米国海軍基地を攻撃した敵国人と同じ人種だというだけで、このような被害を受けました。

ホシヤマさんは、収容所にいながらも自身のライフワークとなるキリスト教青年会(YMCA)の活動を続け、収容所で強く求められていたレクリエーションや教育、親睦のためのプログラムの立ち上げに貢献しました。トパーズからの早期解放が認められ、マサチューセッツ州のスプリングフィールド大学で修士号を取得した後、ホノルルでYMCA若者プログラムのディレクターを務めました。その後、カリフォルニアで都市部の若者のためのプログラムに長年携わりました。また、1976年から83年には全米学生YMCA同盟(National Association of Student YMCAs)の立ち上げを支援しました。引退後は、経理の専門知識を生かし、複数の非営利団体の発展と維持に力を注ぎました。(2016年2月)