ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1443/

WRAでの撮影の自由(英語)

(英語) I*: 収容所での撮影にはどのような指示が出されましたか?指示内容を教えてください。

グループで何かしている様子を撮るようにという指示でした。例えば美術制作をしていたり、絵画やそういったものですね。それから日常生活です。

I: 日常生活ですか。ある特定の視点から収容所生活を描くように、というような意図はありましたか?それとも、「現場に行って何でも撮って来てくれ」というような指示でしたか?

僕に任されていました。収容所での生活を撮影することになっていましたが、指示はありませんでした。

I: 方向性を示されたり、「こういうものは写すな」と言われることもなく?

そういうことはなかったですね。

I: 何かを撮影した後、「本当はそれを撮られると困るんだ」などと言われたことはありませんでしたか?

いいえ、制約は全くなかったんです。何でも撮ることができました。それはいいことでした。

* “I” はインタビュアー(ジョン・エサキ)


写真撮影

日付: 2009年12月3日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ヒカル・カール・イワサキ氏(1923年生)はカリフォルニア州サンノゼに育ち、高校時代には学校新聞や卒業アルバムの制作に携わり、写真への興味を深めました。1941年12月7日の日本による真珠湾攻撃に続き、2月19日のフランクリン・ルーズベルト大統領による大統領令9066の発令を受け、イワサキ家はサンタ・アニタ集合センターに送られました。その後、一家はワイオミング州のハートマウンテン強制収容所に収容され、そこではカメラの所有は禁止されました。イワサキ氏が収容所内の病院でレントゲン写真の撮影技師の仕事に就くと、彼の能力は収容所新聞のトップの目に止まり、コロラド州デンバーにある戦時転住局(WRA)写真班の現像技師として働くことを勧められました。その後1年もしないうちにイワサキ氏はWRA専属カメラマンとして国内を自由に飛び回るようになり、何百人もの日系アメリカ人を撮影しました。彼が撮影したのは、収容所を出て米国各地に再定住しようとしていた人々でした。戦後、イワサキ氏はカメラマンとしての長いキャリアの一歩を踏み出し、『ライフ』、『タイム』、『スポーツ・イラストレイテッド』、『ピープル』他、国内の多くの雑誌社で働きました。

イワサキ氏は、2016年9月、93歳で亡くなりました。(2016年9月)

ビル・ホソカワ

記者の責任 (英語)

ジャーナリスト (1915 - 2007年)

チエ・トミヒロ

波風を立てるな (日本語)

JACLシカゴ支部の補償委員会の委員長