ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1378/

ミスコミュニケーション(英語)

(英語)僕は彼女に、また鎌倉で会えるかと尋ねました。大仏を見に行こうとか、確かそんなようなことを言ったと思います。その数日…いえ、1週間後でしたが、鎌倉でもう1度会うことになりました。しかし、遠路はるばる鎌倉まで行ったというのに、玻満子は来ませんでした。彼女は現れなかったのです。僕はすっぽかされ、日本人の女の子に待ちぼうけを喰わされたことに本当に腹を立てました。でも、それは本当に仕方がないことで、彼女は僕に手紙を書き、当時僕が居た住所に送ってくれていました。その建物は東京にありましたが、名前を思い出せればいいのですが、思い出せません。とにかく手紙は、軍に取り上げられていました。手紙には約束した週は行けない、というようなことが書いてありましたが、僕には知る由もありませんでした。軍人と、当時敵国人として考えられていた日本人が連絡を取り合うことを、軍は認めていませんでした。

それで、彼女がどうやって謝りに来たかは覚えていませんが、彼女は戻ってきた手紙を僕に見せてくれました。軍が彼女に送り返していたのです。手紙を見せられた僕はもう怒るわけにもいかず、その時から僕らは付き合い始めました。


軍隊 (armed forces) 軍隊 退役軍人 (retired military personnel) アメリカ陸軍 退役軍人 第二次世界大戦

日付: 2012年1月26日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ジョン・エサキ、西村 陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ハリー・シュナイダー氏(1916年生まれ)は、東京に駐在したアメリカ陸軍情報部隊員でした。ハリーは日系人ではありませんでしたが、事務処理能力の高さを買われ、サンフランシスコの陸軍情報部 (M.I.S.) 研修プログラムに採用されました。その後ハリーは二世兵士と共に日本語を学習することに関心を持つようになりました。第二次世界大戦直後の1948年、ハリーは妻の玻満子(はまこ)と結婚しました。第二次世界大戦終結時、アジアの「戦争花嫁」が米国へ入国するには、特別立法の制定が必要でした。1950年、ハリーと玻満子は米国に入国するため、東京の日本領事館で再び結婚し、2人は米国に渡った最初の夫婦の一組となりました。2013年6月、ハリーは97才で亡くなりました。(2014年6月)

ジョージ・カズハル・ナガヌマ

軍隊でタイピストとして働く

(1938年生まれ)クリスタルシティに収容されていた日系ペルー人

ジョージ・カズハル・ナガヌマ

軍隊でバスケットボールをする

(1938年生まれ)クリスタルシティに収容されていた日系ペルー人

カズム・ナガヌマ

妹のキヨは彼にとって第二の母親のような存在だった

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

ミア・ヤマモト

父親の影響

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士