https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1362/
(1933-2014) 日系アメリカ人アニメーター
(英語)2万ドルが収容所で生き残った人々への補償金額でした。ではこの2万ドルをもらい、1万8千ドルでキャデラックの車を買おう、と言いました。残りの2千ドルは車を海から取り出すのに使おう、と。パシフィック通りをずっと走らせ、パロスベルデスで素潜りさせようかと。でもそれをする前にドアの溝にペイントをしようと思いました。これが4年間で得たもの、と。収容所の4年間で支払われたもの、と。私には今日まで批判や重圧の中にいた友人が多くいるので、彼らに電話して「キャデラックを運転して崖から海に落とす。もちろん新車だ。見たい?」と言いました。そうしたらテレビ局なども来たのです。それでやろうとしてそこを立ち去り、妻にこのことを話しました。うちにはお金があまりありませんでしたから、妻は、「そんなことをしないで。お願い。お金は必要よ」と言ったのです。それで結局諦めたのです。
I*:補償金を欲しくはなかったのですか?
ええ、いや、欲しかったです。しかしそれが意味するものが好きじゃなかった。今お金が支払われたとしても、2万ドルは十分ではありません。借金をしている人々にそれで返済をしなければなりませんから。そのお金を見ることすらありません。ある意味見なかったわけです。借金の返済がありますから。だからそのお金はただ、あるポケットから違うポケットに移っただけのことなのです。
*“I”は、インタビュアー(クリス・コマイ)
日付: 2012年6月29日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: クリス・コマイ、ジョン・エサキ
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
ジミー・ムラカミ氏は子供のとき、ディズニーのアニメを見たのがきっかけで映画アニメーターになった。それは第二次世界大戦中にトゥーリーレイクの強制収容所に入れられている日系アメリカ人を対象に見せられたものだった。ロサンゼルスのシュイナード芸術学校に在籍した後、UPAのアニメーターとして働いた。のちに1960、70年代に多数の有名なコマーシャルを生み出したムラカミ・ウルフ社を設立し、「風が吹くとき」や「スノーマン」の長編映画ディレクターとなる。近年アイルランドに住居を構えた後、2014年の2月に80歳で亡くなる。(2014年6月)
カーター大統領による委員会設置法案への署名の時のこと(英語)
政治活動家 (1917 - 2004)
人々の考えを改めさせたジョン・タテイシ氏の役割り(英語)
補償が残した遺産(英語)
ジェロームからの異動を拒む(英語)
第二次世界大戦・朝鮮戦争の退役軍人 (1919 - 2006)
「しかたがない」意識を超えて (英語)
徴兵忌避者。ハート・マウンテンのフェア・プレイコミティのひとり(1916-2010)
幹部候補生学校卒業後のジェローム訪問(英語)
ターミナルアイランドの人たちと収容所へ(英語)
政治活動家(1927-2010)
訴訟を行うことで人権回復のための基準を設定(英語)
15歳の当時、冒険のように思えた収容所(英語)
初期の戦時民間人転住勾留委員会(CWRIC) (英語)
アメリカ合衆国元運輸長官(1931年生)
法案442 (英語)
最後のハードル、レーガン大統領 (英語)
ポストン収容所での記憶(英語)
(1930年生)アメリカと日本両国で育った日本人とアメリカ人とのハーフ
ポストンへの到着(英語)
「不正を見逃せない」(英語)
日系アメリカ人弁護士・公民権運動アクティビスト(1938-2020年)