ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1317/

飛行士になったこと(英語)

(英語)僕は、決断する時にありました。学校に残り徴兵を待つか、選抜徴兵登録をするか迷いました。この登録制度は、政府がパイロットを獲得するため設置したものでした。国はパイロットを必要としていて、航空知識のある人材の獲得を切望していました。それで僕は、よし、選抜登録も悪くないな、徴兵されてどこに配属されるか分らないよりましだ。と思いました。僕は登録し、大学を辞めてサウス・ベンドのベンディング・フィールドへ行き、曲技飛行を始めることになりました。曲技飛行をやってみて、僕は自分に才能があることがすぐにわかりました。僕は、一瞬にしてグループのトップに躍り出ていたのです。


日付: 2013年2月12日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ダンカン・ウィリアムス

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター,ニットータイヤ「Life History Project」の協力。南カリフォルニア大学「Hapa Japan Database Project」による提供。

語り手のプロフィール

バージル・ウエストデール氏は、1918年、インディアナ州の農場でニシムラ家の5人兄弟の4番目として生まれました。父は日本人、母親はイギリス・ドイツ系でした。ウエストデール氏は、大学在学中飛行士となることに興味を持ち、自家用飛行機操縦士の資格を取得しました。

第二次世界大戦が始まり、日系であることを理由に、彼の商業用操縦士資格は剥奪されました。ウエストデール氏は、法的に姓を変え、ニシムラの西をウエスト、村をデールとし、ウエストデールと改名しました。彼は、アメリカ陸軍航空隊に入隊しましたが、1年後、軍部に日本人との混血であることが知られると、降格処分を受け、強制的に第442連隊戦闘団へ入隊させられました。彼は、イタリアとフランスに出征し、「失われた大隊」の救出に加わりました。終戦間近には、第522野戦砲兵大隊に編入し、ドイツのダッハウ強制収容所でユダヤ人収容者の救出にも加わりました。

戦後、ウエストデール氏は2つの学位と25の特許を取得し、科学分野の研究開発における国際賞を受賞しました。引退後は、運輸保安庁で14年間働きました。

ウエストデール氏は、共同で自伝「Blue Skies and Thunder: Farm Boy, Pilot, Inventor, TSA Officer, and WWII Soldier of the 442nd Regimental Combat Team」を執筆し、2011年には名誉黄金勲章を受賞しました。2022年2月8日、104歳にてなくなりました。(2022年2月)


*ダンカン・ウィリアムス氏によるバージル・ウエストデール氏へのインタビューは、展示「Visible & Invisible: A Hapa Japanese American History」(目立つ、目立たない:日系アメリカ人“ハパ”の歴史)のために行われました。この展示は、南カリフォルニア大学による「Hapa Japan Database Project」との共催により、ニットータイヤ「Life History Project」の協力を得て開催されています。撮影はエヴァン・コダニ氏。