ディスカバー・ニッケイ

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新米判事と新米ママ(英語)

(英語)娘が生まれたのは1975年ですから、私が裁判官になったばかりの頃、彼女はまだとても小さかったですね。当時を振り返って一番大変だったと思うのは、母親と新米裁判官に同時になったことです。それは、私には本当に大きな挑戦で、仕事が難しい上に他のことも全部しなければならないのは大変でした。こういうことに関する新刊がありますね、――または『アトランティック・マンスリー』の記事だったでしょうか。仕事を持つ女性にとって、母、妻、プロフェッショナルであることの難しさについて書かれています。大変なんですよ。


家族 法律

日付: 2012年7月10日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ローレンス・ラン

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター; Japanese American Bar Association

語り手のプロフィール

キャサリン・ドイ・トッド判事は、1942年1月14日、フランクリン・D・ルーズベルト大統領による大統領令9066発令の1か月前に生まれました。大統領令の発令により、彼女と彼女の家族は、ワイオミング州ハートマウンテン強制収容所と北カリフォルニアのツール・レイク強制収容所に収容されました。

第二次大戦後、一家はロサンゼルスに戻り、トッド判事はロサンゼルスで育ちました。彼女は、1959年にロサンゼルス高校を卒業し、スタンフォード大学へ進み、1963年に史学部を卒業しました。その後、ロヨラ法科大学に進学した判事は、1970年、法学位を取得しました。

トッド判事の弁護士としてのキャリアは、ロサンゼルスのリトル東京で個人弁護士事務所を開業したところから始まりました。当時、ロサンゼルスで働く日系アメリカ人女性弁護士は、3人しかいませんでした。1970年代中頃、トッド氏と数名の日系アメリカ人弁護士は集結し、日系アメリカ人弁護士協会(JABA)を立ち上げました。JABA立ち上げ当初の主な目的は、日系人の裁判官を増やすことにありました。

1978年、ジェリー・ブラウン州知事は、トッド氏をロサンゼルス郡裁判所裁判官に任命し、トッド判事は、アジア系アメリカ人女性初の裁判官となる栄誉を受けました。3年後の1981年、ブラウン州知事の任命により、トッド氏はロサンゼルス高等裁判所の裁判官に昇進しました。2000年、トッド氏はグレイ・デイビス知事の任命を受け、カリフォルニア第2区控訴裁判所第2部の陪席判事となり、現在に至ります。(2012年7月)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

別々に収容された家族(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

フランク・ソギ

日本の親戚を訪問(英語)

弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)

バート・A・コバヤシ

家族優先(英語)

Kobayashi Group LLCの.創設者 (1944年生)

バート・A・コバヤシ

白人家庭に受け入れられて(英語)

Kobayashi Group LLCの.創設者 (1944年生)

ロレイン・バンナイ

「生涯をかける訴訟」に携わったこと (英語)

弁護士(1955年生)

ジョージ・ヤマダ

戦前のワシントン州スポケーンで家族経営していたホテルでの鉄道労働者たちとの思い出 (英語)

初生雛鑑別師 (1923年生)

マーガレット・オダ

日本語と価値観をもとに育つ(英語)

(1925 - 2018)ハワイ出身の教育者、二世

ロベルト・ヒロセ

日本の習慣(スペイン語)

二世日系チリ人、ビジネスマン(1950年生)

ポーラ・オヨス・ハットリ

日本文化への興味 (スペイン語)

日系アルゼンチン人、三世

ポーラ・オヨス・ハットリ

祖父との思い出 (スペイン語)

日系アルゼンチン人、三世

ポーラ・オヨス・ハットリ

祖父を理解するために日本語を勉強 (スペイン語)

日系アルゼンチン人、三世

外間良広

人生でもっとも印象に残っている日

沖縄出身、一世アルゼンチン人 (1917年生)

外間良広

奥さんとの出会い

沖縄出身、一世アルゼンチン人 (1917年生)

高木一臣

日本では親戚も少なく(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

ベナンシオ・シンキ

家での規律と躾 (スペイン語)

日系ペルー人画家 (1932-2016年)