ディスカバー・ニッケイ

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リトル東京で法律事務所を開業(英語)

(英語)私は、リトル東京と強いつながりを感じていました。昔からずっと通っていましたし、仕事もしていましたので、リトル東京にオフィスを借り、事務所を開業することにしました。両親や祖父母の友人たちに開業の知らせを送り、人が来るのを待ちました。そうやって私は生計を立てることができました。 今は誰もそんなことをしませんから、生活できていたなんて驚きですね。でも、私が開業した1970年頃は、小さな個人事務所を営む弁護士が多い時代でした。日系の弁護士はほんの一握りで、少数がサンフランシスコ・ベイエリアで、ほとんどがリトル東京在住でした。クレンショウ地域に事務所が1つありましたが、この事務所もリトル東京に移転しました。本当に小さなコミュニティでしたね。 弁護士は皆知り合い同士で、彼らの多くが私に仕事をくれました。つまり、訴訟を私に譲ってくれていたのですが、自分で受け持ちたくないケースだったのでしょうね。私は、個人事務所を開業し、生計を立てることができました。


カリフォルニア州 コミュニティ 法律 リトル東京 ロサンゼルス アメリカ合衆国

日付: 2012年7月10日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ローレンス・ラン

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター; Japanese American Bar Association

語り手のプロフィール

キャサリン・ドイ・トッド判事は、1942年1月14日、フランクリン・D・ルーズベルト大統領による大統領令9066発令の1か月前に生まれました。大統領令の発令により、彼女と彼女の家族は、ワイオミング州ハートマウンテン強制収容所と北カリフォルニアのツール・レイク強制収容所に収容されました。

第二次大戦後、一家はロサンゼルスに戻り、トッド判事はロサンゼルスで育ちました。彼女は、1959年にロサンゼルス高校を卒業し、スタンフォード大学へ進み、1963年に史学部を卒業しました。その後、ロヨラ法科大学に進学した判事は、1970年、法学位を取得しました。

トッド判事の弁護士としてのキャリアは、ロサンゼルスのリトル東京で個人弁護士事務所を開業したところから始まりました。当時、ロサンゼルスで働く日系アメリカ人女性弁護士は、3人しかいませんでした。1970年代中頃、トッド氏と数名の日系アメリカ人弁護士は集結し、日系アメリカ人弁護士協会(JABA)を立ち上げました。JABA立ち上げ当初の主な目的は、日系人の裁判官を増やすことにありました。

1978年、ジェリー・ブラウン州知事は、トッド氏をロサンゼルス郡裁判所裁判官に任命し、トッド判事は、アジア系アメリカ人女性初の裁判官となる栄誉を受けました。3年後の1981年、ブラウン州知事の任命により、トッド氏はロサンゼルス高等裁判所の裁判官に昇進しました。2000年、トッド氏はグレイ・デイビス知事の任命を受け、カリフォルニア第2区控訴裁判所第2部の陪席判事となり、現在に至ります。(2012年7月)

Fumiko Hachiya Wasserman
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フミコ・ハチヤ・ワッサーマン

文化人類学から法学への転向(英語)

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高校における黒人差別の理解

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