https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1148/
寿司職人(1962年生)
何か逆にね、アメリカにいると、何か日本人だぞ俺はっていう、何かプライベート、何て言うの、プライドが、何かすごい増したみたいな感じで。特にコネチーカット18年いる間は、もう俺やっぱり日本人だから日本人らしく、ちゃんと日本の文化じゃないけど、トラディショナルをアメリカ人の人に分かってもらえたらいいかなという感じでお店をやっていましたね。だから、こっちに戻ってきてもそうですね。ここ開けてもそう。やっぱりうちなんか、あのね、日系人のおじいちゃんおばあちゃんたち来るけど、焼き魚とかいろいろお弁当とか、ちらしとか食べてもらってますけどね。やっぱり、これはやっぱり、本来の味みたいな感じなのを、分かってもらえたらいいかなぁっていう感じで、やってますけどね。それがだんだん何かみんな分かってきてくれてるみたいで、何かいいんじゃないのかなと。
で、今やっぱり、ね、アメリカ、フュージョンがああだとかみんな言ってますけど、やっぱ僕は、それもそれでまたいいんですよ。でも、やっぱり本来の原点じゃないかな。ね、100年前に日本っていうすしの歴史があって、その時はもう冷蔵庫とかアイスとかない時代でね、やっぱ昆布締め漬け、あと押し寿司、関西の方で言ったら。そういうのからお寿司っていうのが本来始まったもんですよと教えながらね、食べさせてあげると、結構アメリカ人の人も、「あぁ、そうなんだ」っていう感じで、喜んで食べてくれるみたいですよね。
日付: 2009年9月10日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: 田中 泉
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
1962年、東京に生まれる。1981年に渡米。移住当初はサンディエゴのレストランで寿司とキッチンを手伝っていた。1990年に、ニューヨークで仕事の話があり東海岸へ。1990年には知り合いが店を出すと聞きコネチカットへと移動した。1997年に独立し、彼のレストランはニューイングランド地方を中心としたZAGATで最高の評価を得るまでに成長した。2006年、妻と子供のためにロサンゼルスへ戻ることを決意し、他の店で寿司職人とした働くかたわら、寿司ケータリングなどを行った。数々の寿司コンクールでの優勝経験を持つ関氏は、2008年、リトル東京に「利寿司」をオープンした。 (2009年12月)
波風を立てるな (日本語)
JACLシカゴ支部の補償委員会の委員長
今後すべきこと (日本語)
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二世日系チリ人、ビジネスマン(1950年生)
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それでも、日本人 (英語)
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ワシントン州イーナムクローでの日系を恥じた幼少期(英語)
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収容所体験の影響 (英語)
アジア系アメリカ人女性最初の判事(1942年生)
『ニッケイ』という言葉について (英語)
音楽家、芸術家、教育者(1949年生)
補償運動後の日系アメリカ人の未来(英語)
一世と二世の心理(英語)
政治活動家 (1917 - 2004)
中国系学生との関わり(英語)
世代の格差(スペイン語)
『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)
日系社会では世代交替が必要(スペイン語)
日系アイデンティティ(スペイン語)
「日系」の定義 (ポルトガル語)
ブラジル日本移民史料館館長