ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1125/

シェフとして今後やりたいこと

やっぱり板前としてね、もっといいもの作りたいとなる、贅沢になりますよね。そうすると、どうしてももっといい材料がないものだろうかと。それでね、82年にね、1982年。だから、今から20年・25年ぐらい前ですか。に、一回ね、漁師を5人連れてね、エクアドルからチリの国境までね、魚をずっーと捕って、2ヶ月ぐらいやったことがあるのね。これはね、物の見事にね、我々がまだね、見たこともないようなものもありました。これは今流通するようになりましたからね。そういった意味で、ここは非常におもしろいところ。

あとね、まだね、僕知らないのはね、ジャングルの材料っていうのはね、あんまり使ったことがないのね。っていうのは、向こうに誰かそういう詳しい人がいて、こっちに持ってくるんならいいけど、やっぱり暑いところだから。それから淡水魚だから傷みやすいわけね。だから、そういった意味ではなかなか難しいところがあるんだけど、これから先の課題は、ジャングルに何があるか、ね。その野菜でも何でもですよ。そのジャングルのものを使って、また日本料理との文化を融合させたらどんな料理ができるだろう。こういうチャンスもいっぱいあるわけね。だからこれから先もね、おそらくね、退屈することはないと思います。


料理 料理 (cuisine) 食品 多国籍料理 ペルー

日付: 2007年4月18日

場所: ペルー、リマ市

インタビュアー: アン・カネコ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1953年7月11日、宮崎県西都市の老舗和食料理屋の4代目の息子として生まれる。6歳のころからレストランの厨房で遊んでいた小西氏は、11歳の時修業のため他の料理人候補たちと共に厨房の手伝いをするようになる。その後、16歳で上京し、1971年に料理屋「ふみ」のシェフになる。

1974年、アメリカや日本などで和食創作料理で知られている「NOBU」のオーナー松久信幸と共にペルーへ移住。「Matsuei」という和食レストランで10年間シェフを勤めた後、リマ市内のシェラトンホテルで「Wako」と「Toshiro’s」を開店。2002年には、サンイシドロ地区にある「Sushi Bar Toshiro’s」のマネージャーも勤めるようになる。

レストラン経営の傍ら、San Ignacio de Loyola大学でも教鞭を執っったり、世界各国の料理フェスティバルへも参加し、創作料理「ペルービアン・フュージョ ン」(日本とペルーの創作融合料理)を紹介し、数々の表彰を受ける。2008年には、ラテンアメリカに定住している日本人シェフでは始めて、日本政府より農林水産大臣表彰を受賞した。(2009年10月)

ミシェル・ヤマシロ

三か国語を使った沖縄での活動(英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

ジミー・ナガヌマ

ペルーから米国へ強制連行(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

ジミー・ナガヌマ

ペルーでの子供時代の思い出(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

ジミー・ナガヌマ

クリスタルシティでの最初の食事(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)