その3>>発行部数を完全に把握することはできないが、44年7月号が600部、1年後の45年7月号が1,000部という記録がある。多くの熱心な読者をもつ『鉄柵』でも発行部数は800部であったから、『ポストン文藝』の発行部数はかなり多い。制作費はWRAからの援助金のほか、所内のキャンティーン(売店)で20セント、外部へは送料を含めて25セントで販売された。「編集後記」には寄付金への謝辞が掲載されているので、熱心な支持者からの寄付もあったと思われる。
ポストンはトゥーリレイクとは異なり、志願兵となる者、再定住のため収容所を去る者など人びとがつねに移動した。ポストン文芸協会の人びともひとりまたひとりと去って行くが、『ポストン文藝』はこれら外部へ出た人からの寄稿によって支えられ、継続することができた。また、雑誌をもたなかったマンザナー収容所の人びとに作品発表の場を提供している。したがって掲載されたものは、ポストン収容所にとどまらず広く他の収容所や外部からの投稿記事を含んでいた。
『ポストン文藝』を支えた「ポストン歌会」は1945年8月26日に最後の歌会を開き、その3年にわたる活動の幕を閉じた。ポストンに残留したメンバーはわずか6名になっていた。『ポストン文藝』は戦争が終わった翌月その役目を終えて、9月号を最後に終刊となった。
3.『ポストン文藝』の内容この雑誌は前述の通り、『若人』『怒濤』…