Chiyoko Mita

上智大学外国語学部ポルトガル語学科教授。サンパウロ大学大学院博士課程修了(哲学・文学・人文科学専攻)。社会人類学博士。専門はブラジルにおけるエスニック・アイデンティティの研究、ブラジル北東部の貧困に関する研究。

現在は、ブラジル社会を社会人類学の立場から研究し、労働人口の国際移動に伴うアイデンティティの問題、ブラジル社会史の視点から社会格差の研究、ジェンダー問題を扱っている。また、 近々にはグローバルな視点から砂糖プランテーションと文化変容の研究に着手している。

最近の主な研究業績として、著書『「出稼ぎ」から「デカセギ」へーブラジル移民100年にみる人と文化のダイナミズム』不二出版、2009年。論文「ブラジル社会の多様性とその承認」(『ラテンアメリカ世界のことばと社会』 畑恵子・山崎眞次編、成文堂、2009年、37-62)などがあげられる。

(2011年9月 更新)

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それはグローバルな旅の結果―ブラジルの栽培作物の変化と日本移民- その4

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3)ハワイ・パパイヤがコショウの生産地を救う

パパイヤはコーヒーと並んで、世界一の栽培量(2003年171万5000トン)を誇るブラジルの果物で、世界のパパイヤの約3割をブラジル産が占めている1。パパイヤはメキシコ、西インド諸島、ブラジルに広がる熱帯アメリア原産の果実で、新大陸発見以後に世界各地に急速に伝播していった。植民地としてポルトガル人が開発を始める以前からブラジルには自生しており、その栽培の容易さから品種の改良はほとんどなされてこなかった。糸瓜(へちま)のように長く大きいが、甘味と香りが少ないブラジルの地のパパイヤを「パパイヤ」に変えたのが、コショウ栽培をブラジルに導入した日本移民であった。

1925年、当時のパラー州知事は、日本の資本と労働力を用いて同州を開発することを目的として土地の無償提供を日本政府に申し出た。日本外務省は経済界に諮り、日本人移住地建設に乗り出した。民間から出資を得て南米拓殖株式会社が設立され、1929年、アマゾン開拓の移住地アカラ植民地(パラー州)の建設が始まった。アマゾン開拓は、当初、適格な農作物の選定に苦しんだ。1933年、移民輸送監督としてブラジルに向かった南米拓殖会社の職員が、航路途中のシンガポールで20本のコショウの苗を購入し、船内で育成、ブラジル到着後アカラ植民地の試験場に植樹した。その後もアカラ植民地の経営不振が続き、一部農場の閉鎖を余儀なくされた。1935年農場閉鎖に当って、シンガポールで購入したコショウの木3本が育っていたのが発見された。これをアカラ植民地の適正作物として、日本人農家は栽培に着手した。

1945年、アジアのコショウの主要生産地であるインド、インドネシア、マレーシアを戦火に巻き込んだ世界大戦が終了すると、ブラジルのコショウ価格が高騰した。47年のアカラ植民地のコショウの売上高は前年の7倍増となった2。49年にトメアスー植民地と呼称が改められた植民地では、54年まで「黒いダイヤ」と呼ばれるほどコショウは高騰を続けた。

移住地はコショウによるモノカルチャー農業に依存した。海外消費市場向けの生産には常に大きな危険が伴う。それは植民地時代から繰り返されてきたブラジル経済の歴史である。コショウも同じ道を歩むことになった。

55年、東南アジアのコショウ栽培が回復すると、ブラジルのコショウの価格は下がり始めた。とはいえ、60年まではなんとか好況を維持することができた。ところが、1971年にコショウの病害が移住地に広がり、生産量が急落した。移住地住民の選択肢は3つ、すなわち移住地からの転出、多角営農への転換、新しい移住地の建設であった。

植民地に残った者は多角営農を急速に進め、15種以上に及ぶ農産物を栽培するようになった。その中の一つにハワイ・パパイヤがあった。ハワイにパパイヤが導入されたのは1800-23年頃で、スペイン移民がマーケサス島からもたらしたものとされる3。トメアスー植民地に導入されたハワイ・パパイヤは、ハワイ大学の農学部で改良されたもので、後に導入されたタイワン・パパイヤとともにブラジルで栽培されるようになった。両種ともブラジル産のパパイヤとは異なり、小ぶりながら甘味が強く、香りがよいことから、急速にサンパウロやリオデジャネイロ、ブラジリアといった大都市を中心に高級果実として消費を伸ばした。もともとパパイヤの自生地であることから、新しいパパイヤ種の普及は速かった。現在では、パラー州のみではなくバイア州などの熱帯気候の諸州で栽培されている。

ハワイ・パパイヤの場合も、輸送網と輸送手段の発展が、大量消費地と生産地間のおよそ5000キロを結びつける重要な役割を担った。当初は、ホテルで供される高級果物とされ、地のパパイヤとは扱いが異なる果物となった。現在、ブラジルの諸都市の市場に並ぶパパイヤは、このハワイと台湾で改良されたもので、「パパイヤ」(papaya)と呼ばれ、「ママン」(mamão)と呼ばれてきた地のものは自生種として扱われ、商品作物のパパイヤとは区別されている。

まとめ

ブラジルの日本移民による生鮮果物の改良と普及は、ブラジル人の果物に対するイメージや消費行動を変化させた。高級果実をポピュラーなものとし、換金性の低い栽培植物でしかなかった果物を、高級食材とした。パーティー好きのブラジル人が、人の集まる週末に自宅に買い置く果物は、この30年間に入れ替わった。バナナやオレンジに代わって、リンゴにブドウにパパイヤに柿とりんごと、寒帯、温帯、熱帯と原産地の異なる果物が居間を飾り、熱帯のブラジルで多様な気候の果物を楽しめるようになった。

ブラジルの日本人がこれほど国内市場向けの農作物の改良に熱心に取り組むようになったのはなぜか。第二次世界大戦後のブラジルの工業化による消費市場の拡大が生鮮果物の需要を拡大したことが大きな要因の一つである。さらに、日本移民自身の大きな変化があった。

明治期に始まった北米移民の送出が不可能になったことから開始されたブラジル移民も、蓄財を果たして故郷日本に帰国するつもりのいわゆる出稼ぎ移民であった。2-3年の短期で蓄財を果たして帰国するつもりの日本移民にとって、サンパウロのコーヒー農園の就労条件ではその希望を果たせるものではなかった。短期出稼ぎを5-10年の中期出稼ぎに切り替えた日本移民は、売りに出されたサンパウロ州のコーヒー農園の土地を日本人同士で購入し、日本の農村を範とした農村共同体を建設した。こうした日本人集落がサンパウロ州の奥地に、最盛期にはおよそ500ほど存在したとされる。ブラジルの農村地域にはインフラ自体が整っていない時代であった。日本移民は、共同体の経済活動や子弟の教育を自分達自身で解決していかねばならなかった。そのための手段は、日本移民が日本で経験したことに求める以外になかった。日本移民は、日本から携えた「文化包み」(cultural baggage)をサンパウロ州奥地で開き、日本の農村共同体をそこで再展開したのである。いずれ日本に帰国するつもりでいた日本移民にとって、日本人共同体での生活は都合のいいことであった。

しかし、第二次世界大戦での祖国日本の敗戦は、ブラジルの日本人に大きな混乱を招き、その後10年の年月をかけて日本移民はブラジル永住を決心していった。それまで綿花栽培のように一年で利潤を手にすることができるような換金性の早い作物の栽培を手掛けてきた日本移民は、時間のかかる栽培作物の改良を行い、生産性の高い作物を消費市場に送り出すようになった。そうすることにより、移民一世の子弟たちにブラジルの社会階梯を上ることを可能としたのである。つまり、移民一世が、出稼ぎからブラジルに永住することを決心したことによって、ブラジルの生鮮作物は多様化し、高い生産性と高品質を備えた作物となったのである。

ヒトの移動がもたらした食文化の変化には、生活様式やイメージの変化を伴い、それは新たな文化となる。ブラジルの日本移民がブラジルに導入した日本の青果は、ブラジルの日本食ブームの需要に応え、今ブラジル製日本食を作り出している。栽培植物のみでは文化を変えられないが、栽培植物はヒトと共に長い旅をして、新しい地に導入されることによって文化の変化をもたらしたり、新たな文化を生み出したりしてきたのである。

注記

(21) http://www.brasilianfruit.org/ (2007/05/16) 及び http://www.bahia.ba.gov.br/ (2006/06/27)
(22) 日本移民80年史編纂委員会編、306-307頁。
(23) 果樹園芸大事典編集委員会編、1293頁。

参考文献一覧
・飯田耕三郎『ハワイ日系人の歴史地理』ナカニシヤ出版、2003年。
・入江寅次『邦人海外発展史上巻』海外邦人史料会、昭和11年。
・入江寅次『邦人海外発展史下巻』移民問題研究会、昭和13年。
・果樹園芸大事典編集委員会編『果樹園芸大事典』第2次訂正追補、養賢堂、1986(昭和61)年。
・小林章『文化と果物―果樹園芸の源流を探る』養賢堂、1990年。
・ブラジルの農業編集部編『農業宝典』、サンパウロ、コペラソン出版社、1977年。
・日本移民80年史編纂委員会編『ブラジル日本移民八十年史』サンパウロ、ブラジル日本文化協会、1991年。
・三田千代子「内陸都市サンパウロの形成と発展」国本伊代、乗浩子編『ラテンアメリカ都市と社会』新評論、1991年、125-149頁。
Almanaque Abril 2006, São Paulo: Editora Abril, 2006.
Almanaque Abril 1989, São Paulo, Editora Abril, 1990.
Anuário estatístico do Brasil, Rio de Janeiro: IBGE, 1994.
・Carneiro,J.Fernando, Imigração e colonização no Brasil, Rio de Janeiro: Universidade do Brasil, 1950.
・Cascudo, Luis da Camara, História da alimentação no Brasil, São Paulo: Companhia Editora Nacional,1967.
・Souza, …

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それはグローバルな旅の結果―ブラジルの栽培作物の変化と日本移民- その3

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3.日本移民が変えたブラジルの柿、リンゴ、パパイヤ

日本移民は、3起源の作物を改良している。つまり、既存のもの、外来のもの、日本伝来のものである。これらの3起源の栽培植物は時間的にも空間的にも長い旅をし、ブラジル人に新しい味覚とそれぞれの作物の新たなイメージをもたらした。その例をブラジルにおける柿、リンゴ、ハワイ・パパイアの導入と栽培過程から紹介する。

1)渋柿を甘柿に

カキの原産地は、中国揚子江沿岸および日本の南半部の夏湿気候帯とされる1。ブラジルには日本移民が導入される以前から柿の木は存在していた。ブラジル柿苗が輸入されたのは、フランスからとされる。ブランス人の販売者とブラジル人の購入者の名が記録として明確に残っている最古の年は1890年であるが、それ以前の1880年代にすでにフランスからブラジルに、柿の苗かあるいは実が輸出されていた2。いずれも、日本名「カキ」(kaki)とともにフランスに輸出され、さらにフランスからブラジルに再輸出され、ブラジルでも「カキ」(caqui)である。

19世紀にブラジルに導入されたカキはいずれも渋柿であり、ブラジル人は、軟らかくて渋を抜いたものを食べてきた。軟らかくなった柿は、硬い柿とは異なり、皮のまま櫛型に適当な大きさに切り、「食べる」(comer)というより「吸う」(chupar)という言葉を用いて食されていた。あるいは、スプーンで「すくって」食する果物であった。さらに、軟らかくなっていることから、ジャムに加工して食される習慣もあった。1970年代に入っても、生鮮食品市場では軟らかいカキを購入する時は、容器を持参して購入する消費者の姿が観られた。

第二次世界大戦以前の日本移民にとり、柿の木は、故郷の懐かしい景色に繋がるものとして日本人農家の庭先に、観賞用あるいは自家消費用として植えられていた。「カキ」の木は、日本から西回りの長い旅をして、ブラジルで日本人と出会ったことになる。富有柿に代表される甘柿は1916年、次郎柿は1923年に、それぞれ直接日本から日本移民によって導入されたが、ブラジル人にとり渋を抜いた軟らかい渋柿が「カキ」であったことから、甘柿が消費市場に出回ることはほとんどなかった。

大戦後の50年代に入り甘柿の栽培が順調に進んだが、消費者の嗜好は依然軟らかい渋柿に集中し、商品化はさらに遅れた。1952年5月にサンパウロの郊外モジダスクルゼスでブラジル最初の柿まつりが開催され、甘柿の宣伝が行なわれたが、期待するような消費の伸びはみられなかった。特に、サンパウロに次ぐ消費市場を有するリオデジャネイロでの需要が伸びなかった。

ところが、日持ちが良い甘柿は、インフラの整備に伴い輸送に耐えることからサンパウロを中心に需要が次第に伸び、70年代に入り消費市場は渋柿から甘柿へと変化していった。80年代には少量とはいえヨーロッパへの輸出が開始されている。当時の甘柿の生産量は約15400トン、今日(2005年)ではおよそ16万5000トンと10倍以上に及んでいる3。ブラジル人にとって今日では、柿は「カキ・フユ」(caqui fuyu)となり、硬い果肉を「食べる」果物となった(写真1参照)。都市で育った50代までのブラジル人は、「柿は食べるもの」と解しており、「吸う」、「すくう」という表現は知らない。

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2)ポカポカからパリパリリンゴに

19世紀末にヨーロッパ移民が多数導入されたことにより、実生でのリンゴの栽培が南部3州(サンタカタリナ、パラナ、リオグランデドスルの各州)で繰り返し試みられてきた。しかし、コーカサス地方を原産地とするリンゴ栽培は、熱帯、亜熱帯気候のブラジルではなかなか成功しなかった。

ブラジルでリンゴが商品として市場に本格的に登場するのは、1970年代末のことである。それまで、ブラジルにはアルゼンチン産のリンゴが輸入されていた。南半球で栽培されたアルゼンチン産リンゴは、市場からリンゴが消える夏にヨーロッパで珍重された。とはいえ、アルゼンチン産リンゴの最大の輸入国はブラジルで、生産量の半分が輸出されていた。アンデス山脈のふもとのネグロ川に沿ったネオケン州がアルゼンチンのリンゴの主要な栽培地で、ブラジルで「リオネグロ」と呼ばれるリンゴは「高級果物」の代表であった。

生鮮食品を輸送する手段が十分に発達していなかった時代に、国境を越えての輸送は、日本人の考える「新鮮な」リンゴではなかった。果肉の硬度が下がり軟らかくなったものがブラジル人にとっての、リンゴという果物であった。健康によいとされるリンゴを手で二つに割り、主に病人や幼児がスプーンですくって食べていた。

ブラジルで本格的なリンゴ栽培の研究が開始されたのは、1964年、サンタカタリナ州フライブルゴにおいてであった。1968年、日本の国際協力事業団がリンゴ研究の第一人者をブラジルに派遣し、6年間技術指導と品種の選定にあたり、サンタカタリナ、パラナ、リオグランデドスルの各州海抜1000メートル以上の高地で本格的な栽培が開始された。選定された中心品種は日持ちの良い「フジ」で、サンタカタリナのサンジョアキンに日系の農業協同組合が大規模なリンゴ生産農園を建設した。1986年のブラジルのリンゴ生産は30万トンに達した。これに伴い、ブラジルではアルゼンチンやヨーロッパからのリンゴ輸入が減少し、86年の8万トンから89年には5万4000トンとなった4。ブラジルの輸入の減少とは反対に、生産時期が異なることからブラジルからヨーロッパへ輸出が80年代に始まった。2003年の生産量は84万2000トンに及び、消費市場に登場した80年代の生産量の約3倍に達している5

ブラジルのリンゴ栽培の発展には、軍事政権下の道路網の整備と輸送手段保冷車の普及が大きく貢献している。今日、ブラジル熱帯のアマゾン地方を訪れても市場(いちば)で「フジ」を手にすることができる6。

アルゼンチン産の輸入リンゴ「リオネグロ」のから国産の「フジ」リンゴへと、消費が変化する伴い、ブラジル人のリンゴのイメージも変化した。リンゴは輸入品の高価な果物ではなくなり、日本の23倍の広大なブラジルで誰でもが手にすることができる庶民の果物となった。病人食のポカポカリンゴではなく、噛りつくことのできるパリパリリンゴとなったのである(写真2参照)。

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その4>>

注記
1. 小林、153頁。
2. ブラジルの農業編集部編、35頁。
3. 日本移民80年史編纂委員会編、289頁及びhttp://www.brasilianfruit.org/ (2007/05/16)。
4. 日本移民80年史編纂委員会編、291頁。
5. http://www.brasilianfruit.org/ (2007/05/16)
6. 同じ熱帯の北東部のレシッフェ市では生牡蠣をレストランで楽しむことができる。
牡蠣は3000キロ以上離れたサンタカタリナ州の海で養殖されたもので、リンゴと同様に輸送網と輸送手段の発展によって熱帯ブラジルに出現した生鮮食品である。


*本稿は、 立教大学ラテンアメリカ研究所による『立教大学ラテンアメリカ研究所報. 第39号』(2011年3月31日. pp. 51-60)からの転載です。

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それはグローバルな旅の結果―ブラジルの栽培作物の変化と日本移民- その2

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2.ブラジルの食生活と外国移民

独立以前のブラジルの栽培作物は20種ほど数えられ、果物は比較的多様であったのに対し、野菜は極端に少なかった。こうした食生活に変化をもたらしたのが外国移民であった。

今日残されている19世紀末の大農園主の日用品の購入記録をみると、日常の食事は、農園主であろうと奴隷であろうと大きな差はなく質素であったことがわかる1。肉(牛、豚、鶏)は高価であったことから、結婚披露宴のような特別の場合を除き、地の魚が食され、主食はキャッサバと豆類が主な食材であった2。在来種のトウモロコシや米も利用されてはいたが、とりわけキャッサバはケーキにスープに煮物と、多様な形で用いられていたようである。

味付けは塩が基本であった。しかし塩は、植民地時代、宗主国ポルトガルから輸送されており、その供給は不安定なものであった。塩と一緒に香辛料が味付けに用いられていた。タマネギ、ニンニク、クミン、グローヴ、ナツメッグ、シナモン、ジンジャー、オリーブオイル、トウガラシ、ヤシ油などといった多数の香辛料が、植民地開発当時より用いられていた。アジアを原産地とする多様な香辛料が植民地時代早期に用いられていたことは、当時のポルトガルのアジア貿易の影響をそこにみることができる。ただし、同じアジア貿易の高価な交易品であったコショウは、ほとんど用いられていなかった。「東洋の黒いダイヤ」とも呼ばれたコショウは、ポルトガル人を通じて17世紀に植民地ブラジルに導入されたが、栽培技術や品種の問題があり、大規模な栽培にはいたらず、高価な輸入品であった3

栽培上の問題を解決し、コショウをブラジルの主要な輸出産品としたのは20世紀にアマゾンに入った日本移民であった。ジャガイモも南米原産とはいえ、植民地時代初期にはまだ知られていなかった。19世紀にスペインやポルトガルからの移民がそれぞれ自国から携えてブラジルで栽培するようになった。旧大陸からもたらされたジャガイモの品種を改良して量産に成功したのは日本移民であった。

ポルトガルから輸入されていたものは、塩のほかにワイン、乾しブドウにドライ・イチヂク、干鱈、塩漬けイワシ、小麦などがあった。小麦の栽培は植民地でも試みられたが、熱帯、亜熱帯という気候に適する種が開発されなかった。19世紀に入り、ドイツ移民やイタリア移民がブラジル南部で栽培を試みるがやはり失敗している。ブラジルの町にパン店が出現するのは20世紀に入ってからで、独立後のブラジルに小麦を供給していたのは、もっぱら米国で、1940年にも小麦買い付けの条約が米国と結ばれている。ブラジルで小麦の栽培に成功するのは20世紀半ばのことである。

嗜好品であるアルコールと甘味は、サトウキビのプランテーションによって植民地開発の始まったブラジルでは容易に手にすることができたもので、果物を加えてジャムやリキュールと、色々工夫されていたようである。

今日の商品作物のなかで植民地時代にすでにみられた果物は、アナナスと呼ばれるパイナップルの一種、アフリカから伝来したバナナ、中東やアフリカ起源のメロンやスイカなどである。レモンやオレンジはまだ導入さておらず、柑橘類ではライムのみが知られていた。19世紀になると、外国移民が持ち込んだ新種の果物が加わり、ブラジルの生鮮果物の種類は豊富になった。グアバ、カンブシ(フトモモ科の一種)、パッションフルーツ、ジャボチカバ、アセロラ、ライム、パイナップル、アナナス、パパイア、バナナ、スイカ、メロン、ビワ、オレンジ、ポンカン、マンダリンミカン、ドリアン、マンゴ、アボガド、ナシ、モモ、スイカ、ブドウなどなど、多彩な果物が栽培されるようになり、後に日本移民がこれら栽培作物の改良を手がけることになる。

植民地時代の記録に残っている野菜はキュウリのみで、16世紀のサトウキビ農園主の購入記録にそれがみられるが、高価なために、特別な機会に利用されただけのようである。ただし、オクラやジロ(ナスの一種)のようなアフリカ原産の野菜は、奴隷とともに持ち込まれた。

19世紀の半ば、当時ブラジル第4の大農園主が、自家用に野菜の栽培を試みた記録が残っている。そこにはトマト、ケール、サラダ菜、キャベツ、ジロ、クレソン、エンドウ、隼人瓜が栽培されたと記されている4

1870年頃より奴隷労働力の補給が不可能となり、サンパウロのコーヒー農園の労働力不足は深刻となった。これに代わる労働力として導入されたのがイタリア、スペイン、ポルトガルからのヨーロッパ移民であった。1819-1947年にブラジルに導入された外国移民は490万、このうちイタリア人が150万、ポルトガル人が140万である。ブラジルの奴隷制度が廃止された1888年に導入された外国移民は13万で、このうちのイタリア移民は10万を占めていた5。イタリア移民はトマト、ブドウ、ナス、カリフラワー、アンチチョークなどを、ポルトガル移民やスペイン移民は、サヤインゲン、キュウリ、タマネギ、エンドウマメ、ショウガ、ニンジンなどを、その他のヨーロッパ移民とともにブラジルに新たに、あるいは改めて、持ち込んだとされる。移民の数と時期を考えると、ブラジルの農作物に大きな変化をもたらしたのはイタリア移民であった。後にこれら農作物の品種を改良し、生産性の高い品種にしたのは、ブラジルに永住を決心した日本移民で、1955年以降のことである。

サンパウロ州を中心に日本人農家が展開した農法は、それまでのブラジルの粗放農業、つまり地力略奪農法とは異なる日本の集約農業であった。「日本人が借地した農地には雑草一本生えない」とブラジル人に言わせたほど、徹底した集約農業を展開した。農耕具を工夫し、農薬や堆肥を使い、家族労働力以外の労働力は補助的にのみ用いて、単位面積から高い収益をあげるという日本移民の集約農業は、サンパウロ市近郊の限られた広さの農地でも可能であった。また、生産品を中間業者によって買い叩かれるのを避けるために、日本人農家は、それまでブラジルには存在しなかった農業共同組合を組織して、共同で生産物を直接卸売市場に出荷する方法を採った。サンパウロ市近郊コチアの日本移民は、ジャガイモをサンパウロ市の青果取引所で直接取引きするために農業協同組合を設立して、成功を収めた6

1960年以降日本移民は、日本やその他の海外の野菜や新品種の導入に積極的に取り組できた。今日、サンパウロの市場には、日本移民が導入した白菜、ほうれん草、長ネギ、春菊、シイタケ、シメジ、レタス、日本ナス、ピーマン、日本キュウリ、大根、サヤインゲン、日本カボチャ、キャベツ、ミョウガ、里芋、ゴボウ、タケノコ、コンニャクイモ、イチゴ、巨峰、モモ、ナシ、リンゴ、富有柿、ハワイ・パパイア、ライチなど、多種多様な生鮮野菜や果物が並べられ、熱帯果物はもちろん、日本の味覚に事欠くことがなくなった。

要するにブラジルに渡った日本移民は、ヨーロッパ移民が導入した作物を改良し、日本を含み海外からも農作物を導入し、それらをブラジルの気候と市場の嗜好に応えられるものに改良すると同時に、ブラジル既存の作物も改良、育種し、野生植物は栽培作物とした。しかも単に改良したのみではなく、生産性の高い、良質の作物にしたからこそ、「日本人は農業の達人」とブラジル社会から称賛されるようになったのである。

その3>>

注記
1. Cascudo, pp.209-217.
2. 高価な鶏肉を用いた粥カンジャは、17世紀に病人食としてポルトガルで考案され植民地にも紹介された。しかし鶏肉が高価であったために、病院で患者に給されるようになったのは、18世紀に入ってからである(Souza, p.128)。
3. ブラジルでは、コショウを「王国からのからし」(pimento- do- reino) と呼び、地のからし(pimenta)とは区別される。ちなみにポルトガルでは、コショウを「丸からし」(pimenta-redonda)、あるいは「黒からし」(pimento-preta)などという。
4. Souza, p.124.
5. Carneiro, Anexo.
6. 高い生産性と共同出荷の結果、後にブラジルの日本人は南米最大の農業協同組合コチア農業協同組合を育て上げている。コチア農業協同組合の正式の設立は1927年とされている。1994年、創設70年を待たずに南米一の農業協同組合は倒産し、日本人農家による協同組合の時代は終焉する。コチアの倒産は、戦後の日系人の離農とも深く関係している。


*本稿は、 立教大学ラテンアメリカ研究所による『立教大学ラテンアメリカ研究所報. 第39号』(2011年3月31日. pp. 51-60)からの転載です。

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それはグローバルな旅の結果―ブラジルの栽培作物の変化と日本移民- その1

はじめに

人類による植物栽培の歴史は、常にヒトの移動と生活文化の変容の記録ともいえる。新しい栽培植物は新しい地の住民に新たな食文化をもたらす。栽培植物の伝播には時間的にも空間的にも大きな広がりがみられる。東アジアから中東へ、コーカサスからヨーロッパへ、ヨーロッパからアフリカへ、新世界からヨーロッパへ、ヨーロッパから新世界へと、植物は常に旅を続けてきた。その一部を栽培作物として人類は利用し、新たな文化を育んできた。

本稿では、20世紀に拡大したブラジルの国内消費市場向けに開発された栽培作物に着目する。新しい生産物がブラジルの食生活にもたらした変化を捉え、世界の多様な地域を起源とする植物がヒトとともに旅をして、人類の歴史に影響を与えてきた食文化の一事例として提示する。

具体的には、「農業の達人」とブラジルで賞賛されるブラジルの日本移民の栽培作物を取り上げる。サンパウロ州のコーヒー農園の契約労働者として1世紀前に送出が始まった日本移民は、第二次世界大戦の祖国の敗戦を機にブラジル社会に定着した。この過程で日本移民は、新たに導入、あるいは改良した栽培植物をブラジルの市場に提供してきた。日本移民による栽培植物を通じて、ブラジル人の野菜や果物に対するイメージを変化させたと同時に、新しい味覚ももたしたのである*。

*本稿では、植物名を必ずしも片仮名表記にしていない。漢字あるいは平仮名表記が視覚的により理解しやすいと考えられる場合はそちらを用いている。

1.外国移民と国内消費市場の発展

16世紀以来300年以上にわたって、ポルトガルの植民地であったブラジルは、宗主国に利潤をもたらす役割を専ら担わされていた。スペイン語圏の植民地と比較すると、ポルトガル王国の植民地に対する収奪の構造は徹底していた。宗主国向けの単一商品の生産が最優先されており、植民地住民の食料や衣料品、食器に家具といった日用品の現地生産は輸出生産を阻害するものとして退けられ、宗主国からの輸入に頼った。

植民地からの輸入は貿易に関わるポルトガル商人とポルトガル王に利潤をもたらすものであった。植民地ブラジルが重商主義の時代に、利潤追求のための新たな流通商品を開発することは、ほとんど不可能であった。サトウキビやコーヒーといった伝統的な輸出商品の開発の他に、オレンジ、バナナ、大豆、パッションフルーツ、マンゴ、鶏肉、ハワイ・パパイヤ、メロン、ブドウ、コショウ、生糸といった新たな輸出産品が登場し、モノカルチャー経済からブラジル農業が脱するのは、20世紀に入ってからのことである。

熱帯、亜熱帯に広がるブラジルの地には、ヨーロッパの人々にとっては未知の植物がもともと存在していた。さらに、19世紀に導入された外国移民はそれぞれの出身国から固有の栽培作物を携えてブラジルにやって来た。外国移民はブラジルでこれらの植物を、栽培作物として順次育て上げた。とりわけ、日本移民とイタリア移民は、ブラジルの消費市場に並ぶ野菜と果物を多様なものとし、ブラジルは今日では、世界最大の果物の生産国でとなってい
1

2004年の統計によれば、ブラジルにおける生鮮果物の年間の生産量は4300万トンで、およそ2%が輸出されている。生鮮果物の輸出額は470万2000米ドルに達し、ブラジルの総輸出額の約1割を占めている2。ブラジルの生鮮果物生産量の98%が消費されるブラジルには、巨大な消費市場が国内に形成されていることになる。その消費の中心は、ブラジル最大の人口を抱えるサンパウロ市である。

現在サンパウロ市は人口1000万人を越え(2000年1043万5546人)、西半球最大の都市である。ブラジルの経済活動の7割がサンパウロ市に集中している。サンパウロ市は周辺の38市と人口1800万を抱えるサンパウロ大都市圏を形成し、サンパウロ州の経済活動人口の48%がここに集中している3。サンパウロ市を中心とするサンパウロ大都市圏は、ブラジル最大の消費市場である。

サンパウロ市が、西半球最大の経済都市に成長する契機となったのは、19世紀半ば以降のコーヒー産業の発展である。18世紀に国内消費用にブランス領ギアナから導入されたコーヒー樹は、19席期に輸出作物としてパライーバ渓谷(現在のリオデジャネイロ州の一地方)の大農園主が栽培するようになり、1830年代にコーヒーはブラジルの輸出総額の3割以上を占める主要な産業となった。1870年以降、コーヒー栽培の中心地は現サンパウロ州西部に移動し、コーヒーはブラジルの輸出総額の半分以上を占める第一位の輸出産品となった。サンパウロ市は州奥地で栽培されたコーヒー豆取引の中継地となり、サントス港はその輸出港となった。コーヒー産業は金融、工業の新たな産業をサンパウロ市に出現させた。

コーヒー農園の契約労働者であったヨーロッパ移民、主としてイタリア移民は農園の契約が終了すると、労働市場が形成されつつあったサンパウロ市で工業労働者となった。1901年に市内の工業労働者は約8000人を数え、このうち5000人がイタリア移民であった4。1890―1900年の10年間にサンパウロ市の人口は、6万人から24万人と、4倍に膨れ上がり、1901年の水力発電の開始はサンパウロの工業化を促進した。1920年代にブラジルの工業生産の32%を占めるようになったサンパウロ市は、リオデジャネイロ市を抜いてブラジル最大の工業都市となった5

1920年に58万、34年に100万、第二次世界大戦後の50年に200万人と、サンパウロ市の人口は急増している6。この増加した市の人口の食料需要に応じるために、サンウロ市近郊で農業が発展した。その農業の主な担い手となったのは、州奥地のコーヒー農園から移動してきた日本移民であった。第二次世界大戦が終結し50年代に入るとブラジルでは、自動車道路の整備が進み、農産物を消費市場に直結させる流通網が発達した。特に積極的な「経済成長政策」を採った軍事政権下で自動車道路の整備が進み、1964-85年に舗装道路は、1万8730kmから11万5725kmに延び、517.8%の成長をみせた7

植民地時代から今日にいたるまで農産物を主要な輸出品としているブラジルでは、道路網の整備に伴い輸出作物の栽培地は海岸地帯から奥地へと移動してきた。また、自動車道路の延長と同時に、冷凍車も普及し、生鮮作物の低温流通(コールドチェーン)が可能となり、生産地と国内消費市場が結びつけられ、ブラジル国内の物流が飛躍的に拡大した。1986年の自動車道路は 140万kmであった自動車道路の総距離は、1993年には1666万kmと、およそ12倍に拡大した8。 これらの結果、生鮮野菜や生食用の果物の栽培や養鶏といった国内消費農業の発展がもたらされた。日本の23倍に及ぶ広大なブラジルの各地の多様な栽培作物が国内を行き交い、ブラジルの食生活は飛躍的に豊かなものとなった。

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注記
1. Passoni, 2006, p.2.
2. これらブラジルの輸出生鮮果物の76%はEU向けで、その22%は直接イギリスに、32%はオランダに輸出されている。オランダはブラジルの輸出果物の中継地で、ヨーロッパ諸国に再輸出している。その他ナフタ(NAFTA)、メルコスル(MERCOSUL)、アジアの諸地域にもブラジルの生鮮果物は、輸出されている(Almanaque Abril 2005, p.132)。
3. Almanaque Abril 2008, pp.704-705.
4. 三田、139頁。 
5. 同書、同頁。
6. 同書、141頁。
7. Anuário estatístico do Brasil, pp.5-13.
8. Almanaque Abril 1989, p.181及びibid., pp.5-13.


*本稿は、 『立教大学ラテンアメリカ研究所報. 第39号』(2011年3月31日. pp. 51-60)からの転載です。

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