Laura Honda-Hasegawa

Laura Honda-Hasegawa nació en São Paulo, Brasil en 1947. Trabajó en el área educativa hasta el 2009. Desde entonces se ha dedicado exclusivamente a escribir, lo cual es su gran pasión. Ella escribe crónicas, historias cortas, poemas y novelas, todos bajo una perspectiva nikkei.

Última actualización en septiembre de 2018

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デカセギ・ストーリー

第三十四話 コロナによる突然の帰国

日本へ行ったのは1997年。姉は26歳、わたしは18歳でした。姉のご主人のマサオさんは半年前から豊橋市の工場で働いていたので、私たちはバラバラにならないように同じ町で仕事を探し、ようやく姉はパン屋、わたしはブラジルの商品を扱う店で働くことになりました。

月日が経ち、2008年に姉夫婦は2人の子供を連れてブラジルへ戻りました。その頃、両親はサンパウロ郊外に住んでいましたが、5年後に父が亡くなり、母は姉の家族と暮らすようになりました。

姉たちは大きな二階建ての家を手に入れ、一階をリフォームして雑貨店を開きました。姉夫婦は雑貨屋で生計を立て、母は二階で孫の面倒を見ながら家事を手伝い、皆、忙しい日々を送っていました。

一方、わたしはブラジルの商品を扱う店で働きながら美容師の資格を取りました。その後、浜松市に引越し、ビューティーサロンで働くようになりました。

28歳のとき、豊橋に住んでいたころに知り合った日系ペルー人のウゴさんと浜松で再会し、1年後に私たちは結婚しました。両方とも親戚が多いので、式はブラジルで挙げて、新婚旅行でペルーへ行きました。大勢の人に祝福され、私たちは日本で出会うことができて、本当に良かったと思いました。

長男が4歳のとき、夫婦で初めて里帰りをしました。それ以降、わたしと息子だけでブラジルへ帰省していましたが、息子が小学生になってからは難しくなりました。帰省できなくても、便利なことに、電話でブラジルの家族と簡単に話しができるようになっていたのでとても助かりました。母は電話越しに、いつも時間をかけて、家族のエピソードをテレビドラマのように話してくれていました。

しかし2ヶ月半前のことです。母から電話があり、「大変!今病院なの。マサオさんが・・・」と言って電話が切れました。私は何度もかけ直しましたが、コロナ渦で外出制限中にもかかわらず、姪も甥も誰も出ませんでした。

母の伝え方が気になって、親戚に次々と電話を掛けました。ここ最近、ブラジルで新型コロナウイルス感染者が増加し、大変なことになっているというニュースを耳にしていたので、とても心配になりました。まさかと思いましたが、マサオさんがコロナウイルスに感染して入院していることが分かりました。

重症化せずに、早く良くなりますようにと願いつつ、マサオさんは健康に気をつける人だからと自分を落ち着かせました。しかしその10日後、マサオさんが亡くなったとの知らせが届きました。死因はやはりコロナだったため、マサオさんの遺体は病院から直接火葬場へ運ばれました。家族に見送られることもなく悲しい別れだったとのこと。

「え!?どういうこと?姉と子どもたちはどうしてるの?」

私は居ても立ってもいられませんでした。夫がチケットを用意してくれたので、私は急いでブラジルへ帰国しました。

帰国し改めて話を聞くと、この2ヶ月はとても大変な状況だったようです。マサオさんがコロナウイルスに感染し入院すると、その5日後に今度は姉と2人の子供が入院しました。まもなくマサオさんは急死しましたが、その間全ての世話をしてくれたのが兄でした。

以来、母は兄の家に住んでいたようですが、わたしがブラジルへ戻ると、母は家に帰りたいと言い出したのです。その「家」とは、昔、家族5人で暮らした広い家のことでした。母が姉一家と暮らすようになってからは、空き家になっていたので、3日がかりで掃除をし、母はその家で新たな生活を始めました。

わたしは高校を卒業してすぐ日本へ行ったので、母と過ごす時間が少なかったことを後悔していました。今こそ、たくさんの親孝行をするチャンスだと思い、今までできなかったことを、ここぞとばかりにに始めました。母に料理を作ったり、髪を染めてあげたり、肩もみもしたりとささやかな親孝行に励んでいます。

昔、家族で聞いた美空ひばりのレコードや録画した日本のドラマを、まるで初めてのように、私たちは楽しんでいます。今では母の笑顔を見ることが一番の喜びになりました。

姉と姪は、先日、退院して自宅で療養して回復しています。甥は、まだ、入院中ですが、無事に乗り越えるようにと願っています。

日本に残った夫は経営しているビューティサロンを一時閉めて、家で息子との時間を満喫しているとのことなので、何よりです。

そして母は「大丈夫。なんとかなるさ」と言い、朝は庭の手入れと食事の支度、昼は手芸、夜はテレビを見たり音楽を聴いたり、毎日を楽しく過ごしています。今置かれている状況をあまり不安がっていても良いことはありません。これは、母が教えてくれたことです。

 

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Kizuna 2020: Nikkei Kindness and Solidarity During the COVID-19 Pandemic

パンデミックのさなかに見たコミュニティの絆 - その2

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懐かしい日本の歌との再会

ステイホーム中、友人と日本のテレビ番組や日本の歌謡曲のビデオなどのやり取りを良くするようになりました。私のスマートフォンに届いた最初の動画は「上を向いて歩こう」でした。私は坂本九の歌声を聴き、とても懐かしく感じました。なぜなら、この歌は私が2001年から2007年まで司会を続けたラジオ番組のテーマソングだったからです。毎朝、あの美しいメロディと歌詞をバックに「オハヨウ・ボンディア」と、視聴者に挨拶をし、数々の日本の歌を紹介していました。

そして私は、この有名な曲を、日本の人気歌手16名が自宅で歌い、それをつなぎ合わせたものがネットで反響を呼んでいるのを知りました。タイトルは、「日本を元気に!みんな歌って『上を向いて歩こう』」。新型コロナウィルスの影響下、世界中に元気と希望を届けるために発信されたたもので、私はこの曲を聴いて感動しました。日本の歌に詳しくない友人は、全員の歌手の名前を順番に知りたがりました。

このようなコラボレーションは、ブラジルの日系人歌手の間でも行われました。世界的に有名な曲「We are the World」を英語だけでなく、日本語「こころをひとつに」とポルトガル語「Um só coração」でも歌いました。こちらも動画として配信されています。また、2014年のロンドリーナ80周年記念の際に日系人グループが制作した動画がスティホームを応援するためにと、再び発信されています。この動画では、東日本大震災(2011年)の復興を応援するために制作されたチャリティーソング「花は咲く」を歌うロンドリーナの市民団体の歌声が町の風景とともに紹介されています。ロンドリーナに住み始めたばかりの私の心を温めてくれる動画の一つです。友達もこれらの曲からたくさんの元気をもらっています。

このように特別に作られた曲でなくとも、一般的に日本の曲は日系ブラジル人へ多くの元気を与えているようです。「実際に、ある友人に「これからどんどん送ってね。義兄は病気してから元気がないんだけど、日本の歌を聞くと元気になるの」と言われました。また、母の日には「かあさんの歌」や「母へのメッセージ」の歌ビデオを受け取った日系ブラジル人のお母さんも多く、皆感動したと言っていました。

また、「サライ」(1992年)、「風に立つライオン」(1987年)、「君といつまでも」(1965年)、「ありがたやありがたや」(1960年)、「関白宣言・替え歌」(2020年)、「乾杯」(1980年)など、様々なジャンルの日本の歌が、最近、日系ブラジル人の間でシェアされているようです。これらの歌を、ステイホームになって初めて聞いた人も多く、私の友人は歌詞はよく分からないけれど、日本のものだから好きだと言っていました。

ステイホーム中の日系ブラジル人を楽しませくれてるのは、日本の歌だけではありません。ラジオ体操、筋トレ、リフレッシュ体操、日本のことわざ、CM、沖縄のオバーのラッキョウ作りなどなどたくさんあり、コロナ渦の中、私たち日系人に元気を与えてくれていいます。不思議なことにパンデミックの最中、日系人は以前より「日本」に心が引かれているようです。

日本に憧れるブレノ君

ブレノ君は父方のいとこの孫息子で高校3年生の17歳。私がブレノ君と初めて会ったのは1年前で、大好きな曾祖父への敬意を表すために入れたという彼の左腕の『日本』というタトゥーが印象的でした。去年8月からカナダでホームステイをしていましたが、新型コロナウイルスの影響で早めに帰国しました。

帰国直後、いとこから連絡があり、「ブレノが日本語を習う決心をしたの!知り合いから本を借りて勉強をし始めたの」と、嬉しそうに話してくれました。日本文化に触れない環境で育った5世のブレノ君が日本語を勉強したいというのは素晴らしいことです。私は早速、3カ国語の辞典を届けました。

日本に興味があるとのことなので、私たちはメールで連絡を取りあうようになりました。私はブレノ君へ日本語のオンライン講座、日本の映画、NHKワールド・プレミアムの番組情報などを紹介しています。ブレノ君は興味深くいろいろ尋ねてくれるので、とても楽しくやり取りをしています。

やり取りをしているうち、ブレノ君は国際関係学部を目指しており、卒業後は、外交官になって日本で働きたいとのこと。私は驚きました!昔の自分を思い出させたからです。私がブレノ君と同じ年代の頃、「ラウラは外交に向いている」と父が言いました。結局、私は国語と文学部に進学しましたが、父の言葉は未だに忘れられません。そして、1972年に初めて来日して以来、私の夢は日本で働くことなんです。いとこは『遺伝だわ』と、ブレノ君を応援しています。私も頑張っているブレノ君にエールを送っています。

新しい仲間との出会い

6月18日はブラジル移民112周年記念日で、16日に私はロンドリーナ州立大学歴史学科、東洋文化研究グループ(GPECO)による「ブラジル日系文学」のビデオ会議に招待されました。

この会議を担当していたのが、大学院生ウエノ・マガリャンイス・マルティナ・ルアナさんでした。ルアナさんとは、私がまだロンドリーナに移住することを考えてもいなかった頃、修士論文に私が初めて出版した小説「Sonhos Bloqueados」を選んでくれたのが縁で、連絡を取るようになりました。

今回のビデオ会議では、この「Sonhos Bloqueados」に描かれている当時の環境、日系人を主人公に選んだ理由、読者の反応、文学関係者の感想について話す機会を持ちました。

この本は、1991年6月18日に発行されたものなので、29年たった今になってその話しをするのはとても不思議な感じがしましたが、ビデオ会議なので私は緊張もせず発表することができました。また、この会議で、日系ブラジル人小説家としての道のりを若い世代に伝えることができたことは、パンデミック中の素晴らしい体験の一つです。これからも、生き甲斐として書き続けていきたいと改めて思いました。


今後の日常

ハツコさんの家で1ヵ月お世話になった後、私は自宅に戻りリフォームを終わらせ、今でもステイホーム中です。年齢を重ねるにつれ、どうやったら、自分が居心地が良いのかがだんだん分かってきたような気がします。世界中の人々が悲しさ、寂しさ、不安の中で生きている時、私はただ神様に感謝して毎日を過ごしています。全てが早く元に戻るようにと願うばかりです。

 

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Kizuna 2020: Nikkei Kindness and Solidarity During the COVID-19 Pandemic

パンデミックのさなかに見たコミュニティの絆 - その1

ロンドリーナでの新しい生活

生まれ育ったサンパウロを離れ、パラナ州ロンドリーナ市へ移る決心をしたのはちょうど1年前でした。退職して19年が経ち、私ももう73歳。いろいろと考えた結果でした。

ロンドリーナに引っ越すことにした理由は、私のルーツが辿れる場所だからです。ここには母方の祖父が汗を流して作り上げた農園が「Jardim Honda」という都市区画になって残っていますし、母が青春を過ごし、結婚後両親が暮らし始めた町でもあります。親戚は少ないのですが、母方の叔父の奥さんのハツコさんと2人のいとこも住んでいます。

今年の1月から新型コロナウイルスのニュースを耳にしていましたが、それは遥か遠い国々で感染拡大の問題だと思っていました。2月26日、私は何の不安もなくロンドリーナへ転居し、新しい生活を始めました。

しかし、引っ越しから2週間後、新型コロナウイルスによる感染症対策として突然ステイホームするよう命令が出されました。部屋のリフォームが始まったばかりで、キッチンにシンクはなく、家具がそろっていない状態でした。このような部屋で生活するのは大変だと、しばらくハツコさんの家にお世話になることになりました。

最初は戸惑いもありましたが、のです。

ステイホームを始めてから、お互いの助け合う姿や、思いやりの気持ちに触れることが多くなりました。また、ステイホームをしているからこそできた素晴らしい体験もありました。ここでは、私が感動したいくつかの出来事や発見についてお話したいと思います。

ハツコさんのステイホーム

ハツコさんは、毎週ジムとラジオ体操へ通い、自分で買い物をする元気で活発な81歳。しかし、ステイホームが始まってからは、時々落ち込む姿を見せるようになり、血圧が上り、イライラするようになりました。そして、毎日「外の様子を見に行かなきゃ」と近所を歩き回ったり、すれ違う人に話し掛けるようになりました。

このような新しい状況を受け入れるのは簡単なことではありません。私は、ハツコさんが心配でした。

ステイホームが始まってから数日後、長年の知り合いからハツコさんに「新物の里芋が届いたから、娘がお宅に届けるよ」と電話がありました。その晩、ハツコさんは張り切ってとても美味しい里芋の煮っころがしを作りました。

日が経つにつれてハツコさんは、ジムに通う友達、県人会の会員、親戚、そして隣近所の同い年の奥さんたちと電話で話しをするようになり、徐々に元気が戻ってきました。

そして今では近所のある奥さんは「今、行くよ」と電話を掛け、ハツコさんの家の前にレモンやアボカドの袋を置いて、そのまま帰るのが習慣となりました。ハツコさんの2人の妹と弟の1人は、自家製のケーキやパン、庭で取れたマンゴー、頂き物の肉まんや巻き寿司などをハツコさんのところへ届け、一方ハツコさんは自慢の白菜の漬物をあげるようになりました。

ソーシャルディスタンスを守るため、訪れた人は家に入らず、マスクをしたままで、ブラジル人だったら当たり前のハグもしないで帰って行く、そんな不思議な光景を何度も見ました。ハツコさんが元気を取り戻してきたのは、このようなみんな支えがあるからです。皆で、ステイホームを守り、お互いの絆を深まっていく姿は素敵だなと思いました。

教会からの思いがけない呼びかけ

私はサンパウロに居たころからホーリネス教会のメンバーだったので、ロンドリーナへ引っ越してからもホーリネス教会に通いました。ホーリネス教会は1925年、日本人移民のために日本からの牧師先生により、サンパウロに創立されました。ロンドリーナのホーリネス教会は1938年に建てられ、現在メンバーは204人、そのうち日本人と日系人の数は181人です。

ロンドリーナの教会の皆さんはとても親切で、私を喜んで受け入れてくれました。日曜日の朝は聖書の勉強会に参加し、礼拝では牧師先生の日本語のメッセージを聞き、日本語で賛美歌を歌います。私の母国語はポルトガル語ですが、日本語で神様のことを聞くのがとても好きなので、楽しいひとときでした。礼拝の後は「アルモッソ・昼食」があり、人気のカレーライスや焼きそばを食べながら、皆でいろいろな話しをし、まるで大家族のようです。

ところが、新型コロナウイルスの影響で、引っ越しから1ヵ月も経たないうちにロンドリーナのすべての教会は一時的に活動を停止せざるを得なくなりました。突然、私の大好きな集まりも中止になってしまったのです。そこで私は、早く元に戻れるようにと願いながら、牧師先生方のメッセージをネットで拝聴し始めました。

ステイホームが始まって一週間半経ったころ、ヤヒロ・ヂルマ先生から連絡がありました。「教会で、今、マスクを作り始めています。量が多いので、誰かミシンで縫える人が必要なの。ラウラさん、洋裁できる?」

ロンドリーナ・ホーリネス教会は、新型コロナウイルス感染症対策のために、10,000枚のマスクを病院や老人施設に寄付するプロジェクト「SOS Máscaras」を立ち上げた

私は若いころから自分のブラウスやスカートを作っていますが、私はプロではないですし、そのマスクは医療用なので、最初はできないと思いました。しかし、助けになればとボランティアとして喜んで教会のプロジェクトに参加させて貰うことにしました。

私がこのプロジェクトについて話をすると、長年服の仕立てをしていたハツコさんは、ミシンや縫糸などを提供してくれました。私は2週間で90枚のマスクを仕上げました。教会は、素材のカットからマスク作りまで大勢の助けを借り、10,000枚寄付という目標を達成できました。

その後私がマスクを作っているのを知ったハツコさんの妹は、新聞に載ったマスクの型紙を届けてくれました。ロンドリーナのある日系人芸術家がデザインしたもので、顔にフィットする布のマスクが作れるとのことで、私は早速作ってみました。 

病院で働いているハツコさんの姪は、自分用と同僚用マスク10枚を注文してくれました。いとこ達からも「欲しいわ。仕事場で必要だから」と、8枚を頼まれました。ロンドリーナはマスクの使用を義務化したブラジル初の町だとテレビで知りました。

少しでも人の役に立てたことを嬉しく思いました。お陰で、心に残る経験ができ、ステイホームが楽しい毎日となりました。

友人との絆

私は4年ほど前からスマートフォンのアプリを利用して、毎朝、友人11人へメッセージーを送っています。「おはようございます。良い一日を」のメッセージに、聖書の言葉と祈りを添えた挨拶です。以前は11人のうち4人が必ず「応援ありがとう。励みになります」と返信してくれました。パンデミックが発生してからも同じようにメッセージを送っているのですが、今では全員から「どうもありがとう!今日も頑張ります。ラウラさんも気をつけてね!」といった、思いやりの気持ちが込められたメッセージが戻ってくるようになりました。人と人の繋がりは深まるほど、心が癒されます。このような時期だからこそ、このような絆を実感できるのは、とてもありがたいことで、これからも大切にしたいと思います。

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デカセギ・ストーリー

第三十三話 「カレンが日本へ戻らないって」

高校生だったトシエは、同級生のイヴァンと結婚し、その5ヶ月後に双子の赤ちゃんを産んだ。当時19才だったイヴァンは大学進学を諦め、スーパーのレジ係、自動車部品店店員、タクシードライバーなど、職を転々とした。しかし、家計は苦しく、家族を残して日本へ出稼ぎに行った。

双子のカレンとカリナはすくすくと育ち、3才になった。家族全員で一緒に暮らすため、子供を連れトシエも日本へ行くことにした。今まで一度も働いたことがなかったトシエだったが、夫と同じ工場で働くことになった。自分たちが働いている間、娘たちの面倒を見てもらうため、父親が経営する飲食店を手伝っていた母にも一緒に日本へ来てもらうことにした。

そしてその2年半後、トシエは男の子を出産した。しかし、産後の肥立ちが悪く、退院が遅くなった。退院後もトシエの体調はなかなか回復しなかったので、イヴァンは休暇を取って妻の看病をし、トシエの母は、小学生になったばかりの孫と新生児の世話をはじめ、家事一切を受け持った。

冬になってもトシエの体調は戻らなかったので、イヴァンの冬休みを利用し、家族全員でブラジルに一旦戻ることにした。

12月24日、親戚たちはトシエと家族を暖かく迎えてくれ、とても楽しいにぎやかなクリスマスパーティをしてくれた。幼いころにブラジルを出たカレンとカリナは両方の祖父母に可愛がられ、プレゼントをいっぱい貰って、生後10ヶ月の弟と楽しそうに遊んで、とても嬉しそうだった。

大晦日には、トシエの両親が借りてくれた海岸の別荘で、親戚15人が集まり新しい年を迎えた。トシエは親のありがたみをしみじみと感じた。学生のころは、家族の集まりよりも友達を優先し、母親の手料理を一度も「美味しい!」と褒めたことがなかった。それなのに、母親は家業を辞めてまで、日本に一緒に行ってくれ、いろいろ助けてくれている。感謝の気持ちでいっぱいになったが、なんの言葉も出てこなかった。

翌年の1月6日、イヴァンは日本へ戻った。1月17日が誕生日の母は、もう少しブラジルに居て、自分の誕生日を、皆で一緒に過ごしたいと思っていたので、とても残念がった。

イヴァンが日本へ帰ってすぐ、カレンが「ブラジルの方がいい。ここにずっと居たい。マリアナとラファーとも一緒に学校へ行けるし、チヤ(おばさん)のお家のプールで遊べるし、フェイラのパステール1もいつも食べられるし・・・」と、幾つかの理由を並べた。

最初、トシエは子供のただの気まぐれだと思ったが、妹のカリナにふと尋ねられたことがとても気になった。「ねぇ、ママ、ブラジルの学校でもイジメってある?」

「カリナ、なんでそういうこと聞くの?お姉ちゃんが学校でイジメにあってるの?そうなの?」

カリナは何にも言わなかった。トシエはますます心配になり、色々と考えた。長男が生まれ、自分の入院が長引き、夫が休暇を取って看病してくれていた間、子供たち、特にカレンに何が起きたのかあまり考えていなかった。そういえば、明るい性格のカリナは弟ができたと喜んだが、カレンはしょんぼりし、学校を休んだことが何度かあった。工場での仕事がとても大変で、子供たちの教育をおばあちゃんに任せっぱなしだったトシエは反省した。

その夜、日本に居るイヴァンに電話をした。「カレンが日本へ戻りたくないって」

「いいじゃないの。ブラジルでのんびりさせたら?」と、イヴァンは当然のことのように言った。

そして、母と子供たちと日本へ戻るか戻らないかを話し合い、ブラジルに残る決心をした。

トシエの母ははすぐに賛成!夫が経営する飲食店で、あと3~4年働こうと決めた。孫たちが小学校を終えるまではブラジルで過ごし、その後また日本へ戻り勉強させたらどうかとも提案してくれた。

以来、トシエは慣れていない買い物や家事育児に専念し、両親も孫たちとの時間を楽しんだ。4年後、皆で、日本で暮らすことが、トシエの人生の目標となった。

その日まで、皆、頑張ろう!


注釈:
1. 朝市で食べられる出来立ての「パステル」は、四角くて大きくて、揚げ餃子のような味がするブラジルのソールフード。

 

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デカセギ・ストーリー

第三十二話 たった5ヵ月のデカセギ生活

マリには子供がいなかったため、夫を早く亡くしてからは仕事一筋だった。

専門学校卒業後、小学校の教員として働きながら大学を終えた。大学で知り合った夫は、「多くの子供に勉強の楽しさを知ってもらいたい」と、マリと同じ志を持っていた。二人は結婚し、その後マリは、隣町の中学校で数学を教えながら、夫が経営する塾を手伝った。

11年後、夫は交通事故で亡くなってしまった。「今からひとりで子供たちに教えていけるだろうか」とマリは悩んだ。

先生を続けるのをためらっていると、「何を言ってるの?小さい頃から本を読むのが大好きで、近所の子供を集めて『学校ごっこ』で遊んでいた子が、大人になって弱音を吐いている場合ではないでしょう?」と、母親は勇気付けてくれ、父親も応援してくれた。

自信を取り戻したマリは、教員を続けているうちにあることに気付いた。「一番難しい科目は?」と聞かれると、生徒たちは口を揃えて「数学と国語」と答えるのだ。

そこでマリは、「それならポルトガル語をもっと勉強しよう」と、大学へ戻ってポルトガル語とブラジル文学を専攻した。卒業後、サンパウロに引越しし、私立中学校でポルトガル語を、州立高校で数学を教えながら、忙しい毎日を過ごしていた。

18才で働き始めたマリは、44才で早期退職。「さて、第二の人生は何をしようかなあ」と考え始めた。東洋街をぶらぶら歩いていると、日系人の年配の男性からチラシを渡された。茨城県常総市にあるお弁当やパスタ、うどん、そばの工場の求人広告だった。

マリは興味深く何度もチラシに目を通した。「考えたことないけど、私にも出来るかも。隣町の学校に勤めていた頃、お弁当はよく作っていたし、同僚は珍しそうに卵焼きやおむすびを見ていたものだわ」

その後、いろいろと調べ、日本に働きに行くことを真剣に考えた。友人たちはとても驚いた「なんで?!マリさんはひとりだから自由でしょう?日本へ遊びに行くのならいいけど、デカセギはどうかなあ・・・」

しかし、マリは決意を固めた。日本へ一度も行ったことないので、第二の人生のチャレンジだと思った。

2015年4月1日に日本に着いた。初めて見た日本は桜の季節、夢の中に居るようだった。その2日後には工場で働き始めた。同僚は日系ブラジル人やフィリピン出身の人だちで、皆、一生懸命だった。

マリは工場の近くの古いアパートで、二人の日系ブラジル人女性と同居し、新しい生活に徐々に慣れていった。

5月の大型連休に、隣のブラジル人の夫婦は休暇を取れなかったので、3人の子供の面倒をマリに頼んできた。マリは喜んで引き受け、子供たちと連休を過ごした。そのとき、意外なことを知った。日本にブラジル人学校があることを!3人の子供は保育園と小学1年生と3年生だった。授業はポルトガル語で、科目はブラジルの学校と同じだった。そのため、子供たちは、日本に居ながら日本語が話せなかった。

2015年9月10日、マリは午後4時半に仕事を終え、歩いてアパートに向かった。2日前から雨が激しく降っており、この日は水が膝のあたりまでつかっていた。大勢の人が南の方向へ急いで歩いていくのが見えた。すると、誰かがマリの手を強く引っ張った。同じアパートに住んでいるフィリピン人のジョイさんだった。「避難所に急がなきゃ」とマリに叫んだ。ジョイさんも、赤ちゃんを抱いた妻と子供を二人連れ、避難所へ向かうところだった。

避難所になっている学校の体育館には、大勢の住民が薄い毛布の上に座ってテレビのニュースを見たり、疲れた様子で横になっていた。

茨城県を流れる鬼怒川が氾濫し、常総市は洪水に飲み込まれた。建物、田畑などは次々と水に浸かり、市の約3分の1が浸水してしまった。2,600人以上の住民が学校や公民館に避難した。

マリは驚いた。2011年にブラジルで見た東日本大震災の映像と同じだった。今度はテレビではなく、目の前の風景だった。「日本は大変!地震や台風や津波のような自然災害が、突然やってくる」

避難所でマリは、ボランティアたちが配る食料をありがたく頂いた。

お弁当工場はいつか再開すると聞いてはいたが、全てを失ったオーナーや同僚のことを気の毒に思いながらも、マリはブラジルに戻りたくなった。この恐ろしい災害の被害者となり、ブラジルに居る両親や友人の笑顔を見たくなったのだ。

「もう一度日本に戻って来たい。ブラジル人学校でデカセギの子供に教えたい」という思いを胸に、1ヶ月後、ブラジルに戻った。

 

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