Laura Honda-Hasegawa

Laura Honda-Hasegawa nació en São Paulo, Brasil en 1947. Trabajó en el área educativa hasta el 2009. Desde entonces se ha dedicado exclusivamente a escribir, lo cual es su gran pasión. Ella escribe crónicas, historias cortas, poemas y novelas, todos bajo una perspectiva nikkei.

Última actualización en septiembre de 2018

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デカセギ・ストーリー

第三十九話(後編) 日本がわたしにくれた物

前編を読む >> その日の午後6時頃に、スミエのお母さんは仕事から戻った。「ただいま!ねぇ、どんなもの買ってきたの?今のベビー服ってカワイイでしょう?」と言いながら、急いでスーパーの買い物をキッチンに置きに行った。 しかし返事がなかった。二階に上がると、スミエがベッドで気を失って倒れていた。 翌日、スミエは病室で目覚めた。お母さんの顔を見ると「ここはどこ?何があったの?」と、不安そうに尋ねた。スミエは気分が悪くなり、横になったところまでしか覚えていなかった。 母親は心配そうに、娘の顔を覗いて手を握りしめた。スミエに流産したことを伝えた。スミエは、深い絶望と悲しみのあまりに、無反応だった。母は何を言っても虚しいだけだと思い、スミエを静かに見守った。想像はしていたが、実際、とても辛かった。 流産は、妊娠初期によく起こることだ。しかもスミエの血圧は高く、一人で帰省するプレッシャーもあったのだろう。医師は、流産したことは、絶対に彼女のせいではないと、家族に説明した。 退院後、スミエは部屋に閉じこもり、ぼんやりと日々を過ごしていた。流産の知らせを聞いた夫のマルコは、慌てて日本から駆け付けたが、スミエは部屋から一歩も出ようとしなかった。「疲れているから、ここにじっとしていたい」と。 結局、スミエの両親とマルコが今後について話し合った。4か月後の2020年3月、マルコが会社か...

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デカセギ・ストーリー

第三十九話(前編) 日本がわたしにくれた物

マルコのお父さんは最愛の妻を病気で亡くしたため、一人息子を両親に預け、サンパウロへ出稼ぎに行った。3年たって、ようやく仕事も住まいも安定したので、息子のマルコを呼び寄せた。 マルコは11歳、大好きなパパー1と一緒に暮らすのが夢の夢だった! 毎朝早起きして、お父さんは仕事へ、マルコは学校へと、楽しい日々の繰り返しだった。なかでも、マルコの一番の楽しみは、週末に、お父さんの仕事場を訪ねることだった。 場所は「サンパウロの東洋人街」として知られるリベルダーデ区の中心街にあった軽食堂だった。マルコはそこで働くお父さんを誇らしく見ていた。イタリア系のパパーは、ブラジルのパステル2に豆腐とシメジの具を入れ、それを看板メニューにして店の売り上げを大きく伸ばしたのだ。 中学卒業後、マルコは薬局でバイトをしながら、夜間高校へ進んだ。リベルーデ区にも通い続け、日本のことにますます興味を持つようになった。ショーウィンドーに輝く刀や日本語教室の案内のビラを見ながら、本屋で見る漫画を立ち読みし、サムライ映画をビデオレンタル。「そうだ。日本語が話せたら、さぞかし、面白いだろうなぁ!」と、さっそく日本語教室に通い始めた。 そこで知り合ったのがスミエだった。彼女はマルコより2歳年上で、美容院で働いていた。夢は日本で美容室を持つことだった「ブラジル人が多い町で、みんなをキレイにしてお金をたくさん儲け...

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デカセギ・ストーリー

第三十八話 わたしの大好きなファミリー

わたしの名前はミツノ、11歳の女の子です。パパは日系ペルー人で、ママは日系ブラジル人です。わたしは日本で生まれて、ママが大好きなおばあちゃんの名前「光乃」を付けてもらいました。 ママは21歳のとき、2歳のお姉ちゃんのモニカをブラジルの光乃おばあちゃんに預けて、お姉ちゃんのパパのリカルドさんと日本へ来ました。でも、リカルドさんは日本の生活に慣れずに、半年も経たないうちにブラジルへ戻ってしまいました。 ママはパン屋さんで1年ほど働いてからブラジルへ戻って、リカルドさんと話し合ったようですが、結局、ふたりは離婚してしまいました。 それから、ママは、モニカがお世話になっていた光乃おばあちゃんの家で一緒に暮らし始めました。でも、ブラジルでは仕事がなかなか見つからず、また日本へ来ることにしました。今度は4歳のモニカを連れて、頑張るしかなかったのです。 ママはエライ!モニカを保育園に8時から17時まで預けて、昼間は以前働いていたパン屋さんで働き、夜は家でブラジル料理のマルミッタ1を作って、ブラジル人が多い寮に配達していました。とても忙しかったと思います。 モニカが中学生になると、ママは新しい仕事を始めました。日本料理のレストランでした。外国人、主にブラジル人やペルー人のお客さんが増えてきたので、オーナーはその人たちのふるさとの味を出したいと考え、ママを誘ったのです。 ママは、光...

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デカセギ・ストーリー

第三十七話 コロナなんかに負けるもんか!

1998年、僕は5歳のとき、両親に連れられて日本へ行きました。それまで父は薬局に勤め、母はスーパーで働いていました。しかし、生活がぎりぎりだったので、もっと安定した暮らしを送るために日本へ出稼ぎに行くことを決めました。 最初、ふたりは同じ工場で働いていましたが、日系人で日本語が話せた父は、本社へ移動させられました。まもなくして、母は工場を辞め、ブラジル製品を扱う店で働くようになりました。 僕は、保育園から中学校を卒業するまで日本に居ました。振り返って見ると、人生で一番楽しい時期でした。先生方とクラスメートのお陰で、僕は日本語を話せるようになり、家でも日本語を使っていました。スペイン系の母に日本語を教えたのは父ではなく、僕でした!弟は僕と違って、日本で生まれたのに、日本語が話せません。 弟が日本の学校に馴染めなかったこと、そして、リーマンショックの影響もあり、両親はブラジルで暮らすのがベストだと考え、2008年に私たちはブラジルに戻りました。 母の実家があるサンパウロ州カンピーナスで新しい生活が始まりました。商売に向いていた祖父の血を引いた父は「スーパーシマダ」という大きな店を構えました。未だに「スーパーシマダ」の「スーパー」は「スーパーマーケット」からか「スーパーマンの島田」から由来するのか分かりません。 商売は、徐々に規模が大きくなり、5年後には、店内に日本食の食...

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デカセギ・ストーリー

第三十六話 マサトシの再出発

マサトシとロザナは幼なじみだった。学校の宿題をする時も遊ぶ時もいつも一緒だった。しかし、中学校を終えると、ロザナは伯母さんの美容室で働くためにサンパウロへ行ってしまった。それっきり2人の連絡は途絶えてしまったた。 それから7年経ち、マサトシは大学に進学した。しかし、学費が払えなくなったため、日本へ働きに出た。ある日、ブラジル料理店でフェイジョアーダ1と山盛りのファロファ2を食べていたときだった。 「ひょっとして、マッサ!久しぶり!」と、女性が近寄って来た。 金髪ヘアーがカーテンのように顔にかかっていたので、誰だかよく分からなかったが、自分を「マッサ」と呼ぶ人は世界で1人しかいなかった。 「ザァナ?もしかして、ザァナ?!」 ロザナを「ザァナ」と呼ぶのは、マサトシしかいなかった。 マサトシが立ち上がって話をしようとすると、2席後ろに座っていた黒い帽子をかぶった男性が「おい、行くぞ」と、ロザナを呼んだ。 ロザナはマサトシの電話番号を聞き、ペンで手のひらに書き写すと、急いでレストランを出て行った。 「まさか、ザァナと日本で再会できるなんて!しかもレストランで会えるなんて思ってもみなかった」と、マサトシは驚いた。実はマサトシは日本へ来る直前、用事があってサンパウロを訪れた際、ロザナの伯母さんの住所を訪ねてみた。しかし、そこにはすでに違う人が住んでいた。ロザナたちは大分前...

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