Laura Honda-Hasegawa

Laura Honda-Hasegawa nació en São Paulo, Brasil en 1947. Trabajó en el área educativa hasta el 2009. Desde entonces se ha dedicado exclusivamente a escribir, lo cual es su gran pasión. Ella escribe crónicas, historias cortas, poemas y novelas, todos bajo una perspectiva nikkei.

Última actualización en septiembre de 2018

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デカセギ・ストーリー

第三十九話(前編) 日本がわたしにくれた物

マルコのお父さんは最愛の妻を病気で亡くしたため、一人息子を両親に預け、サンパウロへ出稼ぎに行った。3年たって、ようやく仕事も住まいも安定したので、息子のマルコを呼び寄せた。

マルコは11歳、大好きなパパー1と一緒に暮らすのが夢の夢だった!

毎朝早起きして、お父さんは仕事へ、マルコは学校へと、楽しい日々の繰り返しだった。なかでも、マルコの一番の楽しみは、週末に、お父さんの仕事場を訪ねることだった。

場所は「サンパウロの東洋人街」として知られるリベルダーデ区の中心街にあった軽食堂だった。マルコはそこで働くお父さんを誇らしく見ていた。イタリア系のパパーは、ブラジルのパステル2に豆腐とシメジの具を入れ、それを看板メニューにして店の売り上げを大きく伸ばしたのだ。

中学卒業後、マルコは薬局でバイトをしながら、夜間高校へ進んだ。リベルーデ区にも通い続け、日本のことにますます興味を持つようになった。ショーウィンドーに輝く刀や日本語教室の案内のビラを見ながら、本屋で見る漫画を立ち読みし、サムライ映画をビデオレンタル。「そうだ。日本語が話せたら、さぞかし、面白いだろうなぁ!」と、さっそく日本語教室に通い始めた。

そこで知り合ったのがスミエだった。彼女はマルコより2歳年上で、美容院で働いていた。夢は日本で美容室を持つことだった「ブラジル人が多い町で、みんなをキレイにしてお金をたくさん儲けるのよ」。

「なんで、そんなデッカイ夢を?」と、最初は驚いたが、スミエの決断力にマルコはどんどん惹かれていった。結局、マルコが22歳、スミエは24歳のとき、二人は結婚した。と言っても、最初は離れ離れだった。

「私は大丈夫だから、マルコは大学を卒業して、パパーが新しい商売を始めるまで手伝ってから、日本へ来ればいいよ」と、スミエは夫を励ました。

そして、スミエは日本に移住した兄夫婦の経営するスーパーの近くに小さな家を借りて「Sumie & Marco」という美容サロンをオープンした。美容師でないマルコの名前を入れたことには理由があった。男性の髪も扱うサロンにしたかったからだ。

一年半後、マルコはようやく日本に着いた。平日は電気機器工場で働き、土曜日は、地域のブラジル人学校の生徒たちの宿題を手伝ったり、地元の子供たちを集めてサッカーを教えたりした。最初は、何か手伝えることがあればと、スミエのサロンに顔を出したが、「仕事が捗らないから、来ないで」と、スミエに言われた。実は、スミエよりマルコの方が、日本語が話せたので、お客さんは、すぐマルコに話かけ、ブラジルのことや、日本の印象について、話が弾むようだった。

日本での暮らしは充実し、ふたりは大満足していたが、子供が出来ないのが悩みだった。「いつなんだ?私の孫は?」と、マルコのお父さんがいつも電話で聞いた。

それから3年後、スミエはやっと妊娠した。サロンの経営はいとこに任せ、里帰りをした。マルコは仕事の都合ですぐには行けなかったが、一か月後に迎えに行く約束をした。

久しぶりにブラジルへ戻ったスミエは皆に祝福され、実家でゆっくりと過ごした。両親の元気な姿を見るのが何よりだった。

「ブラジルのベビー服はとても可愛いから、持って帰ったらどう?」と、3人のベテランママの友達に誘われて、スミエはVinte e Cinco de Março3へ出かけた。

地下鉄駅を出ると、急斜面だったので、スミエは友達のマリアの腕を借りて歩き始めた。突然、誰かが走って来て、スミエとマリアを突き飛ばして去って行った。後ろからは何人かの男の人が「ペガ・ラドロン4」と叫びながら追い駆けて行った。

マリアはすぐに立ち上がったが、スミエはしばらく道路に倒れていた。他のふたりの友達と、通りがかった人たちは「大丈夫ですか?」と、心配そうにスミエを囲んだ。

スミエは立ち上がり、恥ずかしそうにうなずいた。

その日、買い物をするのは止めて、皆、タクシーで帰った。

その時は、この出来事が悲しい結果に終わるとは、誰もが想像していなかった。

続く>>>

注釈

1. イタリア語で「お父さん」

2. ブラジルのおやつでNo.1

3. サンパウロの中心部にあるにぎやかな商店街

4. 「泥棒だ!捕まえろ!」

 

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デカセギ・ストーリー

第三十八話 わたしの大好きなファミリー

わたしの名前はミツノ、11歳の女の子です。パパは日系ペルー人で、ママは日系ブラジル人です。わたしは日本で生まれて、ママが大好きなおばあちゃんの名前「光乃」を付けてもらいました。

ママは21歳のとき、2歳のお姉ちゃんのモニカをブラジルの光乃おばあちゃんに預けて、お姉ちゃんのパパのリカルドさんと日本へ来ました。でも、リカルドさんは日本の生活に慣れずに、半年も経たないうちにブラジルへ戻ってしまいました。

ママはパン屋さんで1年ほど働いてからブラジルへ戻って、リカルドさんと話し合ったようですが、結局、ふたりは離婚してしまいました。

それから、ママは、モニカがお世話になっていた光乃おばあちゃんの家で一緒に暮らし始めました。でも、ブラジルでは仕事がなかなか見つからず、また日本へ来ることにしました。今度は4歳のモニカを連れて、頑張るしかなかったのです。

ママはエライ!モニカを保育園に8時から17時まで預けて、昼間は以前働いていたパン屋さんで働き、夜は家でブラジル料理のマルミッタ1を作って、ブラジル人が多い寮に配達していました。とても忙しかったと思います。

モニカが中学生になると、ママは新しい仕事を始めました。日本料理のレストランでした。外国人、主にブラジル人やペルー人のお客さんが増えてきたので、オーナーはその人たちのふるさとの味を出したいと考え、ママを誘ったのです。

ママは、光乃おばあちゃんが家計を助けるためにキビ2とコシーニャ3を作って、販売していたのをいつも見ていたので、「わたしにもできる!」とその仕事を引き受けました。そして、さっそく「おはあちゃんのキビとコシーニャ」をメニューに入れたところ、お客さんがとても喜んでくれました。

ある日曜日、ママはペルーの名物料理「Ceviche」を初めて出しました。すると、「お客さんが呼んでいるよ」と言われ、お客さんのテーブルに行きました。

「ありがとう!セビーチェは最高!」と男性客が言いました。一緒にいた3人の男性と、1人の女性が褒めてくれました。横のふたりの男の子はコシーニャを美味しそうに食べていました。

男性は日系ペルー人のタカシ・タケウチさん。奥さんが重い病気を患ったので、医療費のために日本で働いていました。残念ながら、奥さんは亡くなってしまったので、タカシさんはふたりの子供を日本へ呼び寄せました。その日は、ちょうど子供たちを歓迎する集まりでした。

それ以来、タカシさんは子供たちと、このレストランによく来るようになりました。8歳のアウフォンソと6歳のアウベルトは日本の暮らしに、少しづつ馴染んできたようでした。

そして、2009年の春、ママとタカシさんは結婚しました。2010年にわたしが生まれ、2013年には弟が生まれました。弟の名前はキヨヒコで、パパのお父さんと同じ名前です。パパもママも日本人の祖先に感謝しています。そうでなかったら、日本で出会うチャンスはなかったからです。

今、モニカはブラジルに住んでいます。建築家の道に進もうと頑張っています。ところが、モニカのお父さんのリカルドさんがコロナウイルスに罹ってしまい、モニカはお父さんの看病をしながら勉強に励んでいます。

アウフォンソは専門学校を卒業して、大阪で働いています。アウベルトは高3年生で、卒業したらパパと同じ自動車工場で働きたいと言っています。キヨヒコはサッカー好きの小学生で、わたしは漫画家か作家になる夢を持っています。

パパとママは一生懸命に働いています。「いつか『NHKのど自慢』に出られたらいいなぁ」と、暇のときはカラオケで練習を続けています。

これが、わたしの大好きなファミリーです!

注釈:

1. ブラジル風お弁当 

2. アラブ系肉団子 

3. ブラジル風コロッケ

 

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デカセギ・ストーリー

第三十七話 コロナなんかに負けるもんか!

1998年、僕は5歳のとき、両親に連れられて日本へ行きました。それまで父は薬局に勤め、母はスーパーで働いていました。しかし、生活がぎりぎりだったので、もっと安定した暮らしを送るために日本へ出稼ぎに行くことを決めました。

最初、ふたりは同じ工場で働いていましたが、日系人で日本語が話せた父は、本社へ移動させられました。まもなくして、母は工場を辞め、ブラジル製品を扱う店で働くようになりました。

僕は、保育園から中学校を卒業するまで日本に居ました。振り返って見ると、人生で一番楽しい時期でした。先生方とクラスメートのお陰で、僕は日本語を話せるようになり、家でも日本語を使っていました。スペイン系の母に日本語を教えたのは父ではなく、僕でした!弟は僕と違って、日本で生まれたのに、日本語が話せません。

弟が日本の学校に馴染めなかったこと、そして、リーマンショックの影響もあり、両親はブラジルで暮らすのがベストだと考え、2008年に私たちはブラジルに戻りました。

母の実家があるサンパウロ州カンピーナスで新しい生活が始まりました。商売に向いていた祖父の血を引いた父は「スーパーシマダ」という大きな店を構えました。未だに「スーパーシマダ」の「スーパー」は「スーパーマーケット」からか「スーパーマンの島田」から由来するのか分かりません。

商売は、徐々に規模が大きくなり、5年後には、店内に日本食の食堂が設けられ、そこで母は日本で覚えた数々の家庭料理を提供することになりました。母の名前がカミラなので「カーちゃんのコロッケ」、「カーちゃんの天ぷら」、「カーちゃんのカレー」というメニューを作り、お客さんに「カーちゃん・Catchan」と呼ばれ、張り切っていました。

僕は州立カンピーナス大学を卒業し、今はコンピューターエンジニアリングの仕事に関わっています。

20歳になった弟は店の会計を手伝いながら、経営の勉強をして、サッカーのアマチュアチームに所属しています。

「スーパーシマダ」は2号店をオープンさせ、お店は、お陰様で繁盛しています。週末になると父は、仲間と釣りに出かけ、日曜の午後に帰宅するのが日課となり、日々の生活に大満足しています。

3年前、僕は日本の中学校で同級生だったアネリサさんとアメリカで偶然、再会しました。以来、メールのやり取りをして、今では結婚の話も進めています。

私たちの物語をこの辺で終了すると、皆さんはなんて理想的な行き方、夢のような暮らしをしている家族だと思うでしょう。

しかしながら、現実は違います。ハッピエンドはまだです。

ちょうど1年前、ブラジルで、初めての新型コロナウイルスの死者が出たとニュースで知りました。私たちはしっかりと感染対策をとり、1年を無事に乗り越えることができました。

しかし、2021年に入ると、コロナ感染が怒涛のように押し寄せ拡大し、僕が知っている範囲でも、次々と悲しいことが起き始めました。高齢の親戚や知人の感染、なかには、残念ながら死に至ることもありました。僕の大学の先生は51歳の若さで亡くなってしまいました。サンパウロの友人はご両親とおじいさんを失いました。

僕の両親も、もうすぐ60歳になるので、なるべく外出しないようにと言っていますが、父はいつもの時間に起きて出かけないと気が済まない質なので、困ります。

母は家でお弁当やブラジルの家庭料理を作り、デリーバリービジネスを始めました。僕はリモートで仕事をしながら、父の負担を少なくするため、店の仕事を手伝う事にしました。

しかし、先月、母は気分が悪くなり、検査後、コロナウイルスに感染したことが分かりました。家族も検査し、陽性反応が出た父と弟は41日間入院しました。母の病状は悪化し、大きい病院に搬送する数時間前に、とても悔しいことに、亡くなってしまいました。父と弟には退院後にそのことを知らせました。

それから、弟はずっと家に引きこもり、「僕のせいで母さんは死んだ」と繰り返しながら、毎日泣いて過ごしています。実は、1月末に弟は私たちに内緒で、友人のマンションで行われたパーティーに参加していたのです。一方、父は「私が釣りに行ってコロナを持ち込んだのだ」と、毎日、母がいつも使っていた椅子に座って酒を飲んで、嘆いています。

僕はとても悲しいけど、誰かのせいだと思いたくありません。アネリサさんが贈ってくれた聖書の言葉に励まされています。

天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。生きるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり」(伝道の書3:1-4)

これからも、リモートワークを続けながら、家族の回復を辛抱強く待って、店の経営や従業員の健康状態を管理していきたいです。今の僕に出来ることを精一杯していきたいと思います。

コロナなんかに負けるもんか!

 

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デカセギ・ストーリー

第三十六話 マサトシの再出発

マサトシとロザナは幼なじみだった。学校の宿題をする時も遊ぶ時もいつも一緒だった。しかし、中学校を終えると、ロザナは伯母さんの美容室で働くためにサンパウロへ行ってしまった。それっきり2人の連絡は途絶えてしまったた。

それから7年経ち、マサトシは大学に進学した。しかし、学費が払えなくなったため、日本へ働きに出た。ある日、ブラジル料理店でフェイジョアーダ1と山盛りのファロファ2を食べていたときだった。

「ひょっとして、マッサ!久しぶり!」と、女性が近寄って来た。

金髪ヘアーがカーテンのように顔にかかっていたので、誰だかよく分からなかったが、自分を「マッサ」と呼ぶ人は世界で1人しかいなかった。

「ザァナ?もしかして、ザァナ?!」

ロザナを「ザァナ」と呼ぶのは、マサトシしかいなかった。

マサトシが立ち上がって話をしようとすると、2席後ろに座っていた黒い帽子をかぶった男性が「おい、行くぞ」と、ロザナを呼んだ。

ロザナはマサトシの電話番号を聞き、ペンで手のひらに書き写すと、急いでレストランを出て行った。

「まさか、ザァナと日本で再会できるなんて!しかもレストランで会えるなんて思ってもみなかった」と、マサトシは驚いた。実はマサトシは日本へ来る直前、用事があってサンパウロを訪れた際、ロザナの伯母さんの住所を訪ねてみた。しかし、そこにはすでに違う人が住んでいた。ロザナたちは大分前に引越ししたと、近所の店員が教えてくれた。

「もっとゆっくりとザァナと話したかった」と思いながら、マサトシは昔のことをいろいろ思い出した。

ロザナはおばあちゃんに育てられ、子供のころは日本語で会話をし、日本の歌も歌っていたが、中学生になるとブラジルのテレビドラマに夢中になり、日本語を使わなくなった。また、反対されたにもかかわらず、男性アイドルグループのショーを見に行くといって聞かず、おばあちゃんを困らせた。心配したおばあちゃんは、マサトシにロザナと一緒に行ってくれと頼んだのだ。おばあちゃんに頼まれたマサトシは、女性ファンばかりのショーだったにもかかわらず、ロザナと見に行ったショーはとても楽しかったことを覚えていた。

マサトシは幼なじみと過ごした日々を懐かしく振り返り、ロザナからの電話を待っていた。しかし、1ヵ月が経っても連絡はなかった。「元気にしてるんだろう。ザァナは頑張り屋だから大丈夫」と、特に気にしていなかった。

マサトシは、日本で2年間働いたあとブラジルへ戻った。

両親はその1年前に長年営んだ文房具屋を閉めていた。マサトシは両親に温泉旅行をプレゼントし、。姉夫婦と甥と姪と共に楽しい思い出を作った。マサトシは大学へ戻り、良い仕事も見つけた。新しい生活は順調だった。全てが日本で暮らしたお陰だと、感謝するばかりだった。

ある朝、出かける前に電話が掛かってきた。ザァナだった!「どこからかけてるの?」よく聞こえなかったので、マサトシがロザナに掛け直すした。電話を掛け直してみたもの、ロザナは緊張しているのかあまり話してくれなかった。すると、男性の声に替わった。 

「もしもし、マサトシさんですね?はじめまして、パストル・マコトです。私も日系ブラジル人です。ロザナさんは妊娠7ヶ月で住む場所を失い、私たちの教会に助けを求めて来ました。子供は無事に産まれ、3ヶ月になりました。日本に親戚や知人がいないので、ブラジルへ戻りたいと言っています。いろいろ調べ、マサトシさんのこちらの連絡先を見つけました。連絡が取れて幸いです。ロザナさんの力になっていただけますか。よろしくお願いします」

その後、ロザナは何度かマサトシに電話を掛けてきた。そして、これまでのことを話してくれた。サンパウロへ行って4年経ったころ、ロザナは伯母さんの家を飛び出して、恋人と同居を始めた。ふたりの計画は日本へ行くことだった。そして、おばあちゃんが病気で入院して、まもなく亡くなったことも知らずに、日本へ行ってしまったのだ。伯母さんが美容室を閉めて引っ越ししたことも知らなかったという。

「悪いことをしたから、バチが当たったんだわ!苦労して育ててくれたおばあちゃんを捨て、。家と仕事をくれた伯母も私は捨ててしまった。だから、旦那に逃げられ、ゴミのように捨てられたんだわ!」と。

何度か話をするうちに、ロザナは日本で暮らすことを決め、ある日マサトシにこう言った。「マッサは心がきれい!いつか、わたしの心がきれいになったら、また会おうね!」

それ以来、ロザナが電話を掛けてくることはなかったが、マサトシは安心していた。「ザァナはきっと立ち直るさ!」

窓から見えるイッペーの木は満開だった!マサトシは日本で覚えた歌を思い浮かべ、自分たちにぴったりだと歌い始めた。お気に入りのフレーズを繰り返しながら。

「さらば友よ 旅立ちの刻 変わらないその想いを 今」3

また、明日も頑張ろう!

注釈

1. フェイジョアーダは豆とお肉を煮込んだブラジルの家庭料理。

2. ファロファはキャッサバ粉を炒めた「ふりかけ」

3. 森山直太郎作詞作曲の「さくら」から

 

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デカセギ・ストーリー

第三十五話 ようやく、にっぽん! 

両親が出会ったのは24年前。9歳のときから家族と日本で暮らしていた母は、親戚の結婚式に出席するためにブラジルに戻ってきていました。父は、新郎の親友で、めったに着ないスーツ姿で式に参加していました。

ふたりとも一目ぼれだったかどうかは、はっきりとは分かりません。「パッと見たときの印象がとても良かったのよ」と、母が照れて言うと、父は「着ていたキラキラのスーツのせいかもな」と。

当時、母は20歳。横浜のデパートの化粧品売り場で働いていて、いろいろ習い事をしていました。26歳の父は、両親と祖母と弟と2人の妹とサンパウロで暮らしていて、大きな自動車修理店を経営していました。

出会ってから半年後、二人はブラジルで結婚しました。両親の当初の計画は2年以内に日本で暮らすことでした。母は、すぐにでも家族が居る日本へ帰りたいと思っていましたが、父の仕事が順調で、まだ学生だった妹たちの学費や病気だった祖母の医療費を父が払っていたこともあり、ブラジルで二人の生活は始まりました。1年後、長男と長女の双子が生まれ、3年後には僕が生まれました。そのため、両親は子供たちが小学校を卒業するまではブラジルに居ることにして、子供たちが7歳になると日本語学校に通わせました。「いずれは日本で暮らすことになるので、日本語をしっかり勉強しなさい」と、母は僕たちを応援してくれていました。

ところが、僕が8歳になった時、ブラジルは経済危機に陥りました。父は長年営んでいた店を閉めて、祖父と日本へ出稼ぎに行きました。父は、兄と姉が高校を卒業し、僕が中学校を終えるころに、僕たちを日本へ呼寄せる予定でした。一家そろって暮らせる日を待ち望んで、皆、頑張りました。日本で育った母はブラジルの料理が大好きになり、知り合いのレストランで修行までして、日本でブラジル料理のデリーバリービジネスを始めるプランを立てていました。ブラジル生まれの祖母は、「向こうの人ら、わしの日本語分かるかなぁ」と、心配をしていました。

そんなある日、僕の成績が下がり、母が校長先生に呼び出されました。校長先生は、僕が日本語学校に通っていることを知ると、日本語の勉強を中止するようにと言いました。「日系人の生徒によくあるケースです。お家では日本語を使うので、ポルトガル語が上達しないのです」。

それを聞いて僕は驚きました。「家で僕だけが日本語を使わないのに、なんで?」と。母も校長先生のいうことに納得できなかったようですが、結局、僕は日本語学校を止めて、苦手だった国語と歴史の勉強に集中しました。

2016年、中学3年の一学期の終わりに、僕は大事故にあいました。土曜日の夕方、友達とスケートボードで遊んだ帰り道、大通りを歩いていた僕は、突然、数メートル投げ飛ばされました。気がつくと、僕は病院にいました。母と祖母と兄と姉の顔を見て、ホッとしたのを覚えています。 

あの日、僕はスポーツカーに跳ねられたのです。その時、足を骨折し、頭と顔に重傷を負いました。運の悪いことに、「ハッシャ」という違法なレースをしている車に巻き込まれてしまったのです。

その後、僕は数ヶ月の治療と自宅療養をしいられ、二学期を終えることができませんでした。そして2016年12月、祖母と兄と姉が父のいる日本へ行きましたが、家族でいろいろ考えた結果、僕はブラジルに一人残ることになりました。

母は、兄たちが日本へ行った後2ヶ月ほどブラジルに残り、僕の新しい生活の準備をしてくれました。僕はごはんの炊き方から洗濯と掃除の仕方まで母に習いました。僕の新しい住まいは父の弟のアパートでした。リオで仕事をしていた叔父は、2週間ごとにアパートへ帰ってきました。最初は戸惑いましたが、新しい生活には思ったよりも早く慣れたと思います。スケジュールはこのようでした。午前6時に朝食、6時40分に地下鉄駅へ、7時30分~午後3時は高校、午後4時から日本語と英語の教室、土曜日は部活とパソコン教室、日曜日は選択と掃除。叔父が家に居るときは、シュハスコ1やピザをレストランで食べるのが楽しみでした。

「もう少しの辛抱だよ」と、日本へ行った家族はいつも励ましてくれました。おかげで、僕は無事に過ごすことができたのです。感謝です。

高校卒業直後の2019年12月、僕はようやく憧れの日本に来ることができました!

父と祖父は名古屋の自動車部品工場で働き、いつか自動車修理店を開く目標をもって頑張っています。

母はブラジル料理のデリーバリービジネスを始めて順調にいっています。

僕の自慢の兄さんは、東北大学薬学部に進学し、来年卒業予定です。

僕の自慢のお姉さんは、ケーキ工場でアルバイトをしたことがきっかけで、パティシエの資格を取りました。今は、名古屋の洋菓子店でやりがいをもって働いています。

82歳の祖母は、今まで触ってもみなかった携帯をうまく使うことができるようになったととても喜んでいます。もうひとつハマッテいることは、氷川きよしの歌を聴くことです。

そして僕は、日本語の勉強を頑張りながら、デカセギの子供たちを下校後に預かる施設で、子供たちの宿題を見る手伝いをしています。母のデリーバリーの電話注文を取る手伝いもしています。そして、父が車の修理店を始めたら、そこで働くつもりです。

日本は最高!頑張ります!

注釈

1. 肉料理

 

 

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