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戦争によって、二つの祖国で彷徨う魂~ノー・ノー・ボーイを探した先にみえるもの-その1

この夏、アメリカ西海岸のまちシアトルで、「In Search of No-No Boy(ノー・ノー・ボーイを探して)」という短編映画が仮上映された。作品のもとになった同名の小説は、戦時 中のアメリカで生きる日系人の苦悩を描きいまも読み継がれるアジア系アメリカ人文学の代表作。映画制作にあたった日系三世フランク・アベの話を含め、小説 に込められた時代を超えた普遍的なテーマについてシアトルを訪れ考察してみた。(敬称略)(*注:本稿は2008年に書かれたものです。)

「ヒロシマナガサキ」を制作したスティーブン・オカザキ、「TOKKO・特攻」の監督であるリサ・モリモト。日本の戦争を扱ったこの夏の話題の映画を撮っ たのはいずれも日系アメリカ人三世だった。

スティーブン・オカザキはあるインタビューに答えて、白人の顔をしていないアメリカ人だからこそ、被爆者たちが自分に体験を語ってくれたと話した。このこ とを含めて日本人である部分とアメリカ人である部分を併せ持つ中間に立つ存在として、先の戦争をある意味、客観的にとらえることができたのだろう。

しかし、太平洋戦争中はアメリカ国内(西部)の日本人、あるいは日系人は財産を没収され収容所に入れられた。さらに、日本人であることとアメリカ人である ことの狭間に置かれたがゆえに、「自分はいったい何者なのか」という自己のアイデンティティの危機を抱えることにもなった。

時代をいまに引きつければ、これは何も日系人だけの問題ではない。「9・11」以後にアメリカで暮らすアラブ系アメリカ人は、偏見や差別のなかで、アイデ ンティティの問題に直面せざるをえなかった。

「自分はいったい何者なのか」、「自分はいったい何をすべきなのか」は、広く一般社会の生活のなかでも自問自答される、普遍的な難問でもある。その意味 で、強制収容所への隔離といったアメリカ政府による政策によって日本人・日系人の置かれた状況は政治・社会的、かつ心の問題をいまもなおわれわれに問いか ける。

上映後に質問に答えるフランク・アベ

こうした状況にあってどう生きるか、あるいは生きたかは、映像作品や文学作品としていくつも紹介されてきたが、なかでも小説「No-No Boy(ノー・ノー・ボーイ)」は、作品自体の歴史を含めてそのテーマの意味を象徴的に表している点でいまも注目を集めている。今年の夏この小説の舞台と なったアメリカ西海岸、シアトルでは「In Search of No-No Boy (ノー・ノー・ボーイを探して)」という、ドキュメンタリータッチの映像作品が、仮上映された。

制作の中心人物である、日系アメリカ人三世のフランク・アベは長年温めていたテーマを、日系アメリカ人文学として、またアジア系アメリカ人文学の歴史的な 偉作をもとに、約30分という短い時間のなかで描いてみせた。

公共図書館での試写会的な一般公開ではあったが、地元の日系社会への関心を呼んだのか会場は満席という盛況だった。私も日本からこの会場に足を運んだのだ が、観客席でみられたのは、多くは地元の日系人と思われる年配者の顔だった。戦時中に強制収容所を体験した人たちも訪れ、上映の後にはアベと観客との質疑 応答や意見交換も行われた。


“踏み絵”の質問に、「どうしたらいいのか?」

この映画はどのようなテーマでいったい何を描いているのか。その前に、ベースとなった小説「ノー・ノー・ボーイ」について説明をしたい。作者は、日系アメ リカ人二世のジョン・オカダ。彼は1923年にシアトルで生まれ、57年にこの作品を発表、そして71年に47歳で心臓発作のため亡くなった。彼が完成さ せた唯一の作品がこの小説だった。

「ノー・ノー・ボーイ」とは、いったい何を意味するかというと、戦時中にアメリカ政府が強制収容所内の日系人に対して行ったいくつかの質問のうち、ある二 つについて「No(ノー)」と答えた者が、こう呼ばれた。

質問は、アメリカに対する忠誠を確認するためのもので全部で33項目にわたったが、そのうち第27と第28が特に重要だった。敵性外国人として扱われた日 本人に対するそれはいわば踏み絵といっていい内容であった。

第27項は、徴兵年齢に達していた男子に向けられ「あなたはいかなる場所にあっても戦闘義務を果たすために合衆国軍隊に進んで奉仕する用意はあるか」と質 し、つづく第28項では、すべての収容者に対して「あなたは無条件でアメリカ合衆国に忠誠を誓い、外国や国内のいかなる攻撃からも合衆国を守り、また、日 本国天皇をはじめ、いかなる外国の政府・権力・組織に対しても忠誠を示さず服従もしない、と誓えますか」が、突きつけられた。

この二つに対して、ひとつでも「No(ノー)」という答えをしたものが、「ノー・ノー・ボーイ」という、いわば不忠誠組として扱われた。当時、アメリカに いる日本人・日系人といっても、質問に対する考え方、敷衍すれば、日米間の戦争をどうとらえて、自分はどういう対応するのかは、まさにさまざまであった。

当時は日本から移民してきた一世とその子どもたちの二世がほとんどを占めていたなかで、民族的な意味での「日本人」が染みついている者も多くあれば、一方 で、すでに「アメリカ人」として生活してきた者など、個々に置かれた状況も歴史も異なっていた。例えば、二世のなかでも「帰米」といって、アメリカの親元 を離れていったん日本に帰って教育を受けてまたアメリカに戻るという経験をもつ者もいた。

自らのアイデンティティを日本人であることに置く者、また、名実ともにアメリカ人になろうとする者、そしてその間で揺れる者。問題の質問に対しては、「ア メリカ市民として義務を果たして生活してきたのに、なぜその権利を剥奪して収容所に隔離するのか。さらに、権利を剥奪しておいて、今度はアメリカ人として 戦えというのか」という矛盾に憤りを覚え、その結果が答えとなった例は多々あった。

「ノー・ノー・ボーイ」は、全体からみれば少数派で、さらにそのなかでもまた急進的な日本擁護論者たちもいれば、兵役忌避を目的とするものたちなどもいて ひとくくりにはできない。ただ、全体としてはアメリカ政府から反抗分子とみられ、彼らだけが集められて収容されることになった。

彼らとは反対に、アメリカ兵として志願して戦地に赴く者も当然いた。日系人の部隊としてヨーロッパ戦線でその勇敢な戦いぶりで功績を残した442部隊は有 名だが、多数の死傷者を出した彼らにとっては、一般的に「ノー・ノー・ボーイ」たちは認められない、非難の対象であった。

このように同じ日本人・日系人でも、あるいは同じ家族のなかでも世代によってはとるべき道が違ったりと、当時の日系社会のなかは混沌とした状態にあった。 この辺の事情は、デイ多佳子が著した『日本の兵隊を撃つことはできない/日系人強制収容の裏面史』(芙蓉書房、2000年)に詳しい。

その2>>

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*本稿は、時事的な問題や日々の話題と新書を関連づけた記事や、毎月のベストセラー、新刊の批評コラムなど新書に関する情報を掲載する連想出版Webマガジン「風」(2008年08月31日号)からの転載です。

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