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移民研究との出会い

クリチーバの空港における移民展示

移民研究との出会いには本当に感謝している。そのきっかけは二つあったと思う。一つは大学でのすばらしい講義、そしてブラジルでの生活体験である。

1978年、上智大学ポルトガル語学科に入学すると、ポルトガル語やブラジルについて学んだほか、その頃上智にいらした加藤周一、金田一春彦、鶴見和子という先生方の講義に接する機会を得た。日本文化の特徴や日本語の面白さ、そして比較研究の奥深さに、目を開かれる貴重な体験だった。

とくに鶴見和子先生には、大教室での講義のほかゼミでも薫陶を受け、いろいろなことを学ばせていただいた。大教室で講義をなさる際も、黙って途中退席しようとする女子学生を容赦なく注意された。試験では自分で書き留めたノートならば持ち込み可とし、コピーや他人からの借用物は不可とされた。

鶴見ゼミには社会人や他大学学生も自由に参加して、たいへん活気があった。自宅にゼミ生をお招き下さり、自ら台所に立ちご尊父のお話をされることもあった。比較社会学の講義では、内発的発展論とともに先生の研究テーマであった移民研究の話が、「チンジマリ考」をはじめとしてたいへん興味深く、強く印象に残っている。移民を世界のなかの日本人、世界市民として捉えた話が新鮮だった。

人の話をよく聞いて議論し、自分の考えをまとめ、答えを見出していく学問の面白さと、比較することの意味を体得していった。専門にする言語をマスターして、その言語を使って比較する仕事ができる人物となるよう励まされた。

のちに自分が大学で教える立場になった時、試験では自分の手書きノートならば持ち込み可という鶴見方式を導入し、先生を偲んだ。鶴見先生に出会わなければ、今の自分はいなかったと思う。

なぜブラジルか、とよく聞かれる。ブラジルという国に関心をもち、ポルトガル語が学べる大学に入ったのは、もう35年以上も前の話である。入学したその年は、ちょうどブラジルへの日本人移住70周年記念にあたり、前年には日本でも様々なイベントが開かれていた。ブラジル紹介のコンサートや映画上映会もあった。ブラジルが「21世紀の大国」と謳われていた時代である。

新潟県生まれの私は、冬になるとどんよりとした曇り空が多いこの地方特有の気候に、その頃はとくに魅力を感じていなかった。ともすると暗い陰鬱なイメージと重なって見え、閉ざされた寂しい町にしか映らなかったからである。それゆえかもしれない。太陽がいっぱいで底抜けに明るく、陽気でいろんな人たちが集まっているブラジルのイメージは、その対極のように思われた。それがブラジルに惹かれた理由、少なくともその一つだろう。

もとはと言えば、そんな単純な動機だった。そして、大学2年を終えると、学科で留学生制度が始まり、そのチャンスを得て学部留学生としてブラジルへ渡った。

1980年のことである。その年、初めての外国であるブラジル、リオのガレオン空港に到着した。そこは全くの別世界で、独特な街の匂いがして、見る人会う人が明るく饒舌で気さくだった。ポルトガル語がまるで音楽のように聞こえた。「メニノ・ド・ヒーオ」というその当時流行っていた歌も(もちろんそれは後になって分かったのだが)空港に流れていて、何ともエキゾチックで魅惑的で、「外国」が五感から入ってきた。そこから始まり、ブラジルへ取り付かれるようにして、ジュイス・デ・フォーラ、クリチーバ、サルバドール、サンパウロと4つの街で生活し、いつしかブラキチとなり10年を越える時間が過ぎていった。

そんな町の一つ、パラナ州の州都クリチーバ。この町で私は一番長い「移民」生活を送った。学部留学生として始まり、一度日本に戻って卒業したあと、サルバドール日本人補習校に勤め、パラナ連邦大学大学院に入学。そしてパラナ州政府文化局や日本国領事館での勤務を経て、永住権も申請した。

あと一息というところまで辿っていた。しかし結局、申請結果を待つことなく帰国してしまった。アイデンティティを考えるようになったからである。「このままでは、もう日本人には戻れないかもしれない。ずいぶん感覚がブラジル人化している・・・」。たまに日本から訪ねて来る日本人と会うと、そんな気持ちが高じていた。

ブラジルはもちろん好きだ。しかし日本から離れたいわけではない。日本にもブラジルにも惹かれる。両方に関わりたい。だからとにかく一度日本に帰ることにした。1993年のことである。そしてちょうどその頃は、いわゆる「デカセギ」現象の最盛期にあたっていた。ブラジル日系社会で大きな変革が起こっていた時期である。その転換点を目の当たりにした。

ブラジルは移民の国である。しかし、アメリカやカナダとは明らかに異なる移民大国である。アングロサクソンとラテンの違い。それだけではなさそうだ。混沌とした多様性とゆるやかな統一性がある。黒人文化の色濃いサルバドールとヨーロッパ移民が多いクリチーバでは、人も社会も異なる国家のように、明らかな違いがある。

小田実の『何でもみてやろう』を読んで、学部留学生時代にバスで2ヵ月かけて、ブラジル全土を旅した。正確には1ヵ月旅行を二回行い、北半分と南半分を見て周った。その体験が、ブラジルという国の多様性を実感する基礎となった。

北に行けば海岸線は美しいものの貧しさと隣り合わせで、古着や食べ残し、絞めた鶏を頭陀袋に入れてバスに乗り込んでくる乗客がいた。最長47時間の長距離バスに揺られて、ぬかるみにはまったバスを乗客みんなで押した。南に行けば人はずっと背が高く色白で、便器の位置も高く用を足すにも窮する場所があった。ブラジルとは「ベルブリンジア(Belbulíndia、ベルギーとブルガリア、インドを合わせたような国)」であるとのちに学んだ。

アマゾン河の船上で

さらには、大学のクラスメートや知人の自宅に招かれると、それぞれ移民としての文化を維持しエスニックコミュニティが存在することに、たいへん感銘をうけた。

友人のイタリア系ブラジル人の家庭では、「一人では寂しいだろう」と週末やクリスマスによく呼ばれた。家族のようにして過ごし、パスタの準備を手伝いながらカンツォーネを一緒に歌った。

ドイツ系ブラジル人の家庭では、ゲーテの写真が掲げてあり、家族全員が異なる楽器を演奏してクラシック音楽を嗜み、ファミリーコンサートが開かれた。お前も何か楽器を弾くか、それとも日本の歌を歌えるか、と言われて困った。

ウクライナやポーランド系の友人には、民族舞踊のセミプロがいて、リハーサル見学に訪ねると、その熱心さや華麗さに見とれた。「ウクライナ系ブラジル人であることを誇りに思う」と、その一人は笑顔で語った。

ウクライナ系ブラジル人のバンドゥーラ演奏

それに引き換え、日系人の踊りのグループでは、老婆や中年女性しかおらず、若者は見当たらなかった。不思議な対照だった。この現状が変化し始めたきっかけが、のちのデカセギ現象である。

さらにことの始まりの一つは、パラナ連邦大学大学院歴史科の面接試験である。「あなたは日本人なのだから、日本人移民のことを研究したらどうか?」と質問を受けた。同歴史科はブラジルにおける移民研究のメッカであり、クリチーバはその多様なエスニックから「エスニック・ラボラトリー」とも呼ばれている。先生方はほとんどすべて移民の子弟、つまり二世ないしは三世である。研究テーマには別のことを考えていたが、結局この質問は核心を突いていた、としかいいようがない。サンパウロ大学の斉藤広志先生からも移民研究をするならパラナ州がいいと勧められた。最終的なテーマとして、「南パラナにおける日本人移民とその子孫の文化変容」を選び、今日に至るまでその延長線上の研究を続けている。

多くの偶然が重なり、この道を歩ませていただいた。鶴見先生はじめ先生方には本当に感謝している。そして今では、もっともっと続けたいと思っている。時間が足りない。自分の分身がほしい。日本を少し離れようとして、ブラジルで出会ったのは、意識したことのない「日本」だった。移民研究に出会えてよかった、と今では心からそう思う。私たち日本人が、日系人から日本について学ぶことは非常に多い。

日系人について語るとき、私はいつも「Okage sama de(おかげさまで)」の話をする。ハワイ日本文化センターの日系人の方々が展示テーマの一つとして選び、英語で“I am what I am because of you.”と訳している。すばらしい訳だ。ブラジルでも、同じように先祖から受け継いだ遺産として「感謝のきもち」を大切にしている二世がいる。異文化の中で暮らし、日本人移民の子孫として日本文化を意識した時、日系人としての文化遺産や拠り所の一つが、この「おかげさまで」になっている。日本の私たちがともすれば忘れつつある、しかし大事にして次世代に繋いでいきたい貴重な遺産である。もっともっと移民研究に関わる若者が増えてほしい。そして、こうした人生を歩ませてくれた両親にも感謝したい。

 

© 2016 Shigeru Kojima

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