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ハリウッドに賭ける映画監督・北村龍平 その1

17歳でオーストラリアへ

日本での活躍の後、2007年に活動拠点をハリウッドに移し、現在も数本のプロジェクトに携わっている映画監督、北村龍平さん。彼は「ハリウッド映画を見て育った」と語る。小学生の時に母親を亡くし、父一人、子一人、大阪から東京に父の仕事の関係で一時的に移った時には、学校に行くかわりに、映画館がある渋谷に通った。小学6年生で、映画監督になると友達に宣言。「ロッキー」を見てボクシングに魅かれ、サウンドトラックを聞くうちに音楽にも夢中になった。好きな物の源泉は常に映画だった。

「高2の時に改めて自分の将来を考え、やはり映画監督しかないと思いました。周囲の人はいい大学に行くために勉強をすると言っていました。ではなぜ、いい大学に行くのかと問えばいい就職をするためだと言う。では、いい就職とは何なのか?安定したサラリーマンになることがいい就職なのか?そういう考え方は僕には理解できませんでした。それが(日本の)国民性なのか、よくわからないルールに人々が縛られているように感じました」

北村さんは17歳で高校を中退、大好きな映画「マッドマックス」が撮影された国、オーストラリアの映画学校に留学し、映画作りを学んだ。帰国後は「人間力を鍛える」ためにさまざまな仕事に就いた。

「監督と言うのは、特殊な仕事です。映画を作るため、役者は演技するし、カメラマンは撮影する、それぞれの専門があります。しかし、監督の仕事は何かと言えば、ビジョンを示すことなのです。そして、役者やスタッフの能力を引き出さなければなりません。そのためには、人間としての経験値を上げること、人間力を鍛えることが重要だと思うのです。それがない、つまり説得力のない監督の言うことには従ってもらえないでしょう。少なくとも僕が従う側だったら、聞きませんね」

高層ビルの窓掃除から、正月前の新巻鮭工場などあらゆる仕事を経験し、お金が貯まると旅行に出た。「北極、西サモアの島、誰も行かないような所に足を伸ばしました」。そうして経験値を積み上げ、インディーズ映画を制作。「VERSUS」が高い評価を受けたことで、上戸彩を主演に抜擢した「あずみ」でメジャーデビューを飾った。その後、大作「ゴジラ FINAL WARS」の監督も務めた。

映画監督は自分に向いていると言う。「飽きっぽいんです。だけど映画だったら、ホラーだったりアクションだったり、いろんな人生を演出できる。ただし、どんな仕事でも世に出るのは大変です。途中であきらめざるを得ないようなことに百万回もぶつかるものです。しかし、僕はそこだけは根性がある。しつこいんです。監督をやめようと思ったことは1回もない」


常識には囚われない

(写真提供:北村龍平)

監督になるために高校を辞めた17歳から、実際に監督として生活ができるようになるまで13年かかった。「それまではNobodyでした。僕の映画について酷評する人もいました。それでも僕はびくともしなかった。だって、そんなことを言う人たちが僕の面倒をみてくれるわけではないでしょう?(彼らは僕の人生に)関係ないんです」

日本で感じたネガティブな空気を、ハリウッドではほとんど感じたことはないと言う。「ハリウッドの人たちは、ネガティブで適当なことは言いませんね。ただし、『最高だよ』など、ポジティブで適当なことはよく言います。誰も何も深くは気にしていないのだと思います」

日本の現場では、監督としてのビジョンを示すと、プロデューサーやクルーに「それは無理です。予算も時間もない」と後ろ向きの返答をされることが珍しくないと言う。「脚本に書いてあることをそのままやるのではなく、こうしたらもっと面白くなるとビジョンを入れてふくらませていく。いい映画を作るために、監督のビジョンを、脳みそや知恵を絞り出していかに実現するか、それがクリエイティビティではないでしょうか。だけど『今までこれで成立してるんだから、余計な冒険はしないでいい』と言う考えの人も多くて、何度も戦いました。型破りなことをして何かを成し遂げようと思ったら、今までの方程式や常識に囚われていては無理だと思うんです。常に日本映画界の常識との戦いでした。でもそこを乗り越えてくれた仲間がたくさんいたからこそハリウッドで注目される作品を撮ることができたんだと思います」一方、ハリウッドでは、僕がこうしたいとアイデアを伝えると、『クレイジーだ』とは言いますが、翌日には彼らなりの具体策を提示してくれます。最初から無理だと言わずにどうやって実現するか考える。そこが違う、と思いますね」

ハリウッドに拠点を移すきっかけとなったのは、サンディエゴのコミックの祭典、コミコンにパネリストとして参加したことだった。会場で偶然再会した知り合いを通して、俳優サミュエル・ジャクソンに会った。ジャクソンは北村さんの映画「Versus」や「あずみ」について、さまざまな質問をぶつけてきた。そして「こっちに来て映画をやるべきだ」と強く背中を押され、北村さんはジャクソンと同じマネジメント会社と契約することを決断した。

アメリカに拠点を移すため、日本の自分の会社の仲間には1年前に告知して準備に当たった。周囲には「日米を行き来すればいいのに移住までするなんて」と言う人や「『ゴジラ』のような大作の監督を任され、業界でも安定した仕事を続けていくことができるのに、なぜ、その地位を捨てて結果の見えないハリウッドで挑戦を仕掛けようとするのか」という、ネガティブな意見を口にする人は少なくなかった。「でも、人生って結局は賭けだと思うんです。その先の角を右に曲がるか、左に曲がるかで、人生を変えるような人に出会えるかどうかが決まる」。ハリウッドを夢見て映画監督になった北村さんは、曲がり角の先に自分の居場所があると信じて、2007年、海を渡った。

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© 2016 Keiko Fukuda

director filmmaker hollywood Ryuhei Kitamura