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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第五章 戦後の新たな出発:1945年以降(5)

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公聴会———1981

7月から12月にかけてアメリカ各地で開催された公聴会が、シアトルにやって来た時のことです。その頃、マコ・ナカガワの父親は、自らの米寿の祝いに誰を招待するかで頭が一杯だったのですが、この公聴会で証言することは大事なことだと考えて、娘と一緒に参加しました。

父は耳が遠くなっていたので、二人で合図を決めました。ポン、ポン、ポンと父の肩を軽く3回叩くと、「始めて、お父さん。何でも好きな事を話していいよ」という意味です。「お父さんが話おえたら、私がそれを英語に直してから、お父さんの証言を読むからね。分かった?」父は「よし、分かった」と言ってから、椅子に腰掛けました。会場のみんなが落ち着くまで少し待って、父の口元にマイクを近づけて、ポン、ポン、ポンの合図を送りました。すると父は急に「もう、初めていいのかな」と、凄い大きな声でいったものだから、会場から思わず笑いがあがりました。

「来年で88になります。」と父は語り始めました。聞いている委員たちに八十八の意味がつたわるかどうか気になったけど、そんなことにはおかまいなしで「八人の孫に恵まれた」とか「アメリカには一九一三年に参りました」というようなことをあれこれ話し、父からマイクを受け取った私がそれを英語に直し、続いて父の証言を読みました。途中で、のどが締め付けられるように感じたところがあったけど、何とか大任を終えました。1

すぐ後に証言をしたおじいさんの手が小刻みに震えているのを見てとったマコは、「私以上に緊張している人もいるんだな」と思っていました。おじいさんは日本語で話はじめました。収容所のなかで娘さんが病気になり、収容所のなかの診療所では手に負えないので、外の病院に移された時のことです。病院からすぐに家族に来て欲しいという要請があり、という所まで聞いて、マコは、多分出所許可が取れなかったのだろうと察し、「もうこれ以上おじいさんの話は聞けない、感情が高まっている今、こんな悲しい話を冷静に聞く事は出来ない。とくに今、演壇に座っていて、こんなに多くの人の前で泣く訳にはいかない」と思っていました。すると、おじいさんが、「病院に行く許可はおりました」と静かに続けたので、マコはほっとしました。でも、おじいさんは捕虜として司法省管轄の抑留所にいたので、外に出るには護衛がいり、その護衛を雇う費用が必要でした。おじいさんは淡々と続けました。「お金がありませんでした。私は行きませんでした。娘は死にました」と。もうだれに構うことなく、マコは目から涙があふれるままにしていました。2

一世、二世が体験談を話すのを目の当たりにし「公聴会によって、彼らの勇気や強さに一層敬服するようになったんです。つまり何十年もの歳月の後、公の場に進み出て、これは過ちであったと訴えるその勇気と強さに」と多くの若い二世、三世も日系人であることに誇りをもつことに。シアトルで証言した人は150人に及びましたが、その中の一人は証言することで精神的に自由になれたと語ります。

(公聴会で)証言した時まではですね、自分の人種や文化的背景にコンプレックスを感じていたんです……。でも証言した後、そのコンプレックスは心の中から掃き出され、新しく生まれ変わったように感じましてね。再び生きるすばらしさを感じたんです。いままでの重荷が肩からすーっとおりて、心の中が空っぽになるのを感じたんです。四十年近くの精神的重圧の後、偏見、差別、収容、汚名や苦悩が体の外へと出て行ったんですよ。それで心が洗われたような気分になったんです。3


アメリカンケース———1987

1942年春の夜、ワシントン大学のスザロ図書館でいつものように仲間と勉強していたゴードン・ヒラバヤシ(本シリーズ第三章)に仲間が「おい、もう5分前だぞ」と声をかけました。夜8時から朝6時までの日系人夜間外出禁止令がひかれていたのです。それを聞いてあわてて机の上にひろげたノートや鉛筆を拾い集め、宿舎にしていた大学の側にあるYMCAめがけて駆け出したゴードンでしたが、はたと「何してるんだ、僕は。アメリカ市民である僕が、この夜間外出禁止令に従わなくてはいけない根拠はないはずだ」と気付いて、図書館に戻り、仲間と一緒に勉強を続けました。夜間外出禁止令だけでなく強制立ち退きの登録をも拒否したゴードンは、その理由を綴った書状をもって、5月、シアトルの日系人がすべて仮収容所行きのバスに乗り込むのを手伝った後に、自らFBI事務所に出向き、逮捕されました。「アメリカ市民として、憲法にある主義を守りたかった。夜間外出禁止令も強制立ち退き令も、一つの民族に対してのみ行われていることは、憲法の主義とは相反するものだ。白人社会で、二級市民扱いされることは受け入れられない」と。4

ゴードンは、1943年最高裁判所までいった裁判で有罪になっていますが、それから約40年して、一本の電話を受けます。カリフォルニア大学サンディエゴ校のピーター・アイロンズ教授からで、ゴードンの最高裁での判決に重要な証拠となるべき陸軍省の資料を、司法省が隠蔽していた。その資料が見つかったが、もう一度裁判をする気はあるか?との問にゴードンは、「この電話を40年間、待っていました」と答えています。「この訴訟は、僕だけのものではなく、日系人だけのものでもない。アメリカ人すべての基本的人権にかかわるアメリカンケース(全てのアメリカ人のための問題)だ」とも。

1987年の再審で有罪判決は覆され、2012年には市民に与えられる最高の「大統領自由勲章」が戦時下の勇気ある行動に対しておくられました。今年のシアトルでの「追憶の日」では、ゴードン・ヒラバヤシにゆかりのある方々を招いてのシンポジュウムが行われ、たまたま会場の入り口でプログラムを配っていたわたくしは、杖をついたヘンリー・ミヤタケの姿を目にしました。あまり急なことで、ご挨拶もままならなかったのですが、感謝の気持ちが伝わっていればと思います。5

続く >>

注釈:

1. Mako Nakagawa, interview by Lori Hoshino, May 27, 1998, Densho Visual History Collection, Densho.

2. Mako Nakagawa, interview by Lori Hoshino, May 27, 1998, Densho Visual History Collection, Densho.

3. 前掲「日系アメリカ人のエスニシティ———強制収容と補償運動による変遷」

4. Courage in Action: the Life and Legacy of Gordon K. Hirabayashi, Gordon Hirabayashi Symposium, February 22, 2014 at Kane Hall, University of Washington, commemorate 2014 Day of Remembrance.

5. 同じ理由で、フレッド・コレマツとミン・ヤスイの有罪判決も再審で無罪になっています。

 

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第137号(2014年4月)からの転載です。

 

© 2014 Yuri Brockett

corum nobis CWRIC gordon hirabayashi public hearing

Sobre esta serie

東京にある、子ども文庫の会の青木祥子さんから、今から10年か20年前に日本の新聞に掲載された日系の方の手紙のことをお聞きしました。その方は、第二次世界大戦中アメリカの日系人強制収容所で過ごされたのですが、「収容所に本をもってきてくださった図書館員の方のことが忘れられない」とあったそうです。この手紙に背中を押されるように調べ始めた、収容所での子どもの生活と収容所のなかでの本とのかかわりをお届けします。

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第133号~137号(2013年4月~2014年4月)からの転載です。