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故郷沖縄の心を踊りで伝える真境名本流琉舞道場愛元の会 ~会主・真境名愛子さん~

アラタニ劇場で開催された公演「能羽ぐくる」での一場面
(Courtesy of Alan Miyatake of Toyo Miyatake Studio)

ロサンゼルスから ハワイに飛び踊りの修行 

2014年11月2日、ロサンゼルス市のアラタニ劇場で「能羽ぐくる」と題された琉球舞踊の公演が盛大に開催された。この公演の主催者、真境名(まじきな)愛子さんは北米沖縄県人会芸能部の中心的存在、そして琉舞の踊り手であり指導者である。

踊りとの出会いは、祖父母と暮らした沖縄本島南部知念村での少女時代に遡る。「父は軍医で、ひめゆり部隊と行動を共にして、戦死しました。その後、ハワイ生まれで市民権を持っていた母は、姉を連れてアメリカに渡り、残された私は小学校を卒業するまで知念村で祖父母と暮らしたのです。三線の音が流れてくるような環境で、私はそれが好きで近所に聞きに行ったりしていました。祖母は一人残された私が寂しいのではないかと、踊りを習わせてくれました」

小学校を卒業した愛子さんは、母と姉の待つロサンゼルスに移住した。1950年代の終わり頃、ボイルハイツと呼ばれるダウンタウンのイーストサイドには日系人が多く暮らし、母は日本人病院で働いていた。「沖縄では前にも後ろにも海が広がっていました。でも、見渡す限り広いロサンゼルスでは、私が住んでいた所から海は見えませんでした。最初、言葉に苦労しましたが、姉が宿題を手伝ってくれて、やがて英語での生活にも慣れました」

そして、沖縄からロサンゼルスと環境は変わっても、愛子さんの踊りへの情熱は色あせることはなかった。ロサンゼルス・ハイスクールに進学し、高校生になった愛子さんは、夏休みの3カ月間、踊りの師匠から指導を受けるためにハワイに滞在して修練を積んだ。

「アメリカでは沖縄の県人会の新年会などで踊りを披露する機会がありました。そうやって人前で演技をすると、どんどん私にも踊りへの欲が出てきたんですね。当時はロサンゼルスに正式な琉球舞踊の先生はいなかったので、ハワイの先生の所に行くしかありませんでした」 


琉舞指導に50年 蒔いた種が育つ喜び

大学1年の時には、1年間沖縄に行く選択をした。本場で真境名由康氏に師事した結果、踊りへの思いはますます深くなった。1964年、アメリカに戻った愛子さんは、自宅のリビングルームを教室にして踊りを教え始めた。以来50年、沖縄県のクラブ会館やガーデナの北米沖縄県人会東ビルなどを舞台に、ロサンゼルスで100人近い教え子に、2人の子の育児と会社勤めの傍ら指導を続けてきた。

「沖縄系ではない教え子もいました。でも、芸能には国境はないと思うんです。自分自身が故郷である沖縄の芸を大切にして勉強を続けていけば、他の国の文化に対する理解や大切にする想いも育ってくるのだと思います」

教えることへのやりがいを実感するのは、教え子たちが一度止めた後でも再び戻ってきた時だと言う。「皆、小さい時から習い始めますが、学校の活動が忙しくなったとか、大学に進学したとかの理由で離れていきます。ところが、大学を卒業して近くに戻ってくると再開したり、自分の結婚式で踊りを披露したいので教えてほしいと訪ねてくれたりすると、長い間かけて蒔いた種が育ってくれたと、心の底から嬉しくなります」

それにしても、沖縄の人はなぜこうも芸能への思いが熱いのだろうか? それは地域性であり、芸能を愛でる心そのものが沖縄の伝統なのだと愛子さんは答えた。「人が集まるとカチューシーと言って、皆、いつまでも踊り続けます。それはたとえば、アルメニア人やギリシャ人にも似たような習慣があるように、沖縄の古来からの習慣なのです」

それでは、「いい踊り手の条件」とは何だろう? 「まずは身体の使い方、足腰の入れ方、その基本をいかにしっかりと身につけているか、です。そして私が家元に徹底的に教え込まれたのは、自分の踊りに心を入れなさい、ということ。いかに正しいフォームであっても、心が入っていないと生きた踊りにはなりません」

難しいのは、踊りが意味するところを伝えるためには、歌の意味を理解しなければならないことだ。沖縄の言葉は日本の標準語とはかけ離れているだけでなく、愛子さんの教え子は既に3世、4世の世代になっており、日本語自体も理解しない人が多い。それでも「歌詞を理解する」ことを絶対的な条件にしているのだと愛子さんは言う。

ロサンゼルス郊外ガーデナにある北米沖縄県人会館内の教室での真境名愛子さん。背景の写真は愛子さんが芸能部長として陣頭指揮を執った県人会100周年記念公演で撮影されたもの。


景色は変わっても 人の温かい心は変わらない

 こうしてアメリカで琉球舞踊の後継者育成に励んでいる愛子さんだが、3、4年ほど前には自分が卒業した知念村の小学校で公演を開いたそうだ。そこでは何と、当時の同級生たちが集合して温かく迎えてくれた。

「以前に住んでいた辺りも訪ねました。まったく違ってしまって、昔は茅葺き屋根の家だったのが、まるで別荘地のように整った家が立ち並ぶ風景に変わっていました。隣近所の人もまったくわからない。それでも、偶然会った人に『ここに住んでいた人はアメリカに行ってしまった、と聞いたことがある。今晩はうちに泊っていくんでしょうね』と声をかけられたりしました。『村を見て回ったら、またここに戻って来てください。お昼を作っておきますから』とも言ってくれました。そう言えば、昔、茅葺き屋根だった頃、毎年台風が来ると、どこかの家が吹き飛ばされていました。すると村中の人が総出で、その家を建て直したものでした」

沖縄の景色は変わっても、人の温かい心は変わっていないと、愛子さんは知念村再訪で実感したに違いない。愛子さんにとって、その故郷への思いを表現する方法が琉球舞踊だと言える。その舞踊経験の集大成である、去る11月の公演を成功裏に終了させたことで大きな手応えを感じ、また、2年かけて準備に関わった人々への感謝に胸が熱くなったと語る。

最後に、今から10年後について聞いた。「新しい子たちが習い続けてくれること、そして出来れば、私の次の指導者が、真境名琉舞道場を続けていていほしいと願います」と、温かく柔和な面持ちで愛子さんは答えてくれた。

 

© 2014 Keiko Fukuda

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