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「畑打って俳諧国を拓くべし」 ブラジルに広まる俳句文化 ~高浜虚子と移民・佐藤念腹~ その2

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勝ち負け抗争で荒れた世情を癒し、大衆に広がる

勝ち負け抗争で日系社会が二分していた真っ最中、終戦後の1948年11月に念腹を主宰者とするホトトギス派の月刊俳誌『木陰』がサンパウロ市で創刊された。

創刊号巻頭には高浜虚子からの激励文が掲載されている。編集後記には《伯国に俳句の種子が蒔かれてから約二十年、俳誌「木陰」発刊が企画されてから七年余、此間に育まれた地方俳句会は四十を数え、其(その)擁(よう)する俳友は五百名を超える盛況を示し》とある。ポルトガル語欄が設けられ、植物学の権威・橋本梧郎がその知識を持って当地独自の季題の研究内容を発表するなどの特徴があった。

俳誌『木蔭』は1973年9月に300号出版の記念祭を行なった。1979年には作品5万7千余句の中から2500余句を厳選した『木蔭雑詠選集』(1979年、永田書店、東京)を出した。念腹が1979年10月22日に亡くなり、『木蔭』は同年10月号(通巻372号)で廃刊となった。

そこで実弟・牛童子(本名=佐藤篤以)が『朝陰』を同年11月に創刊して同人を引き継ぎ、四十年の歳月をかけて完成した俳句辞典『ブラジル歳時記』(日毎叢書)を2006年に完成させた。時候、天文、地理、植物、動物、人事などの季題が四季の順に分類されており、その数は約2500にもなる。2011年に亡くなった後は、妻の寿和さんが『朝蔭』発行を続け、2014年8月号は第418号を数えた。

寿和さんは「念腹先生は植民地を行脚されながら俳句を普及した。今みたいに娯楽なかった時代で、戦前はみなが『お金儲けたら日本に帰ろう』と考えていたが、祖国が戦争で負けてそれどころじゃなくなった。日本への望郷で泣く人が多く、その郷愁を癒す唯一の方法が俳句だった。だから辛抱する、観念する、そんな強い想いが俳句に込められた」と説明した。

当時、俳句を作ることは「日本人として生きる」ことそのものであり、強烈な郷愁による心の病を癒す〝薬〟であった。その気持ちの一端が冒頭の句にも「一メートルの悲哀」として詠み込まれている。

終戦直後に邦字紙パウリスタ新聞や日伯毎日新聞で記者をした水野昌之さんは、「戦後コロニアの統合は俳句などの文芸活動から始まった」と見ている。勝ち負け抗争で分裂した日系社会を、両側の共通項である「日本文化」や「祖国への郷愁」を扱う文芸活動によって、徐々に癒した。そんな柔らかい形で統合する活動が、俳句に課せられた隠れた使命でもあったようだ。

念腹は最初の本格的句集『念腹句集』(暮しの手帖社、東京)を1953年に出した。当時日本からの助っ人も続々と来た。『王藻』の主幹・星野立子(高浜虚子令嬢)と女流俳人・中村波奈子が1953年4月に当地に俳句行脚に訪れ、続いて巨星・高野素十も渡伯したことから、花鳥諷詠の写生俳句界は異常なほどの熱気に包まれホトトギス黄金時代を迎えた。

戦後の俳句全盛期には念腹は1千人以上の弟子を持ち、月の半分は俳句指導で地方の移住地を巡り、それで生活を立てていたという海外において稀な人物だった。

前述の『念腹句集』の後書きで、念腹は《私の俳句は無学かつ禄々たる一移民の生活記録にすぎぬもので、世人の鑑賞にたへるやうな句は一つもない筈である。しかし、俳句こそは私の生命のやうなものだ》と切々と述べている。

「ギタ弾いて道に憩へり花珈琲」(念腹)

「倖せとは世知らぬことか木の葉髪」(念腹)

祖国で評価、Haikaiも

写真=服部タネさんのことを報じた記事  

2013年、「アマゾンに九十二才の初鏡」という句で、アマゾナス州都マナウス在住の服部タネさん(92、熊本)が第24回「お~いお茶新俳句大賞」で、ブラジルからは初となる大賞「一般の部B」(40歳以上)を受賞した。日本の俳句大会に投句し、賞を取る人が数多く出るようになったのはここ20年来の特徴だ。同作品は日本国内からの応募を中心に165万211句から選ばれた。念腹の高弟、星野瞳さんがタネさんを指導するので、孫弟子にあたる。

「初鏡」とは正月の季語で「正月の祝いに、着物に着替えて、家族の集まりに出る前に、心新たにして鏡をのぞいた心境。アマゾン生活60年、泣いても笑っても、最後は癒してくれた。アマゾンに心から有難いと思ったときに、ふと浮かんだ句です」と本人が説明した。

タネさんは1954年に家族8人でロンドニア州トレーゼ・デ・セテンブロ(旧グヮポレ)植民地に入植した。数ある戦後移住地の中でも、最も苦労の多かった一つだ。移民ならでは辛い経験が作品に昇華され、祖国で高く評価されている。

* * * * *

念腹忌当日、寿和さん(二世、バストス)が中央に座った。大会委員長の杉本絃一さんは開会の言葉で、70年前には農家の暗いランプの下で頭を寄せ合ってささやかな句会をしたことを懐かしみ、「当時の直弟子、孫弟子もすでに高齢化し、幾分覇気が乏しくなったが、念腹先生の教えを守り、この広大な国の風景、風物を、命の続く限り皆さんと協力して詠み続けていくつもり」と述べた。

司会の浜田一穴さんに今年の感想を聞くと「集まった人の大半は念腹先生を直接知らない孫弟子の世代。それでも続いているところが素晴らしい」と頷いた。

移民開始から106年が経った今も、ニッケイ新聞には俳句や短歌の文芸頁が毎週ある。念腹没後36年経ってもこの大会が行われていることから、「ブラジルに写生俳句の王国をつくるのは男子の本懐」という彼の想いが受け継がれていることが伺われる。

念腹の高弟の一人だった増田恒河(故人、ごうが)が最初の指導者となり、ポルトガル語の「Haikai」もブラジル一般社会にじわじわと広がりつつある。

 

© 2014 Masayuki Fukasawa

Brazil Haikai haiku issei Kyoshi Takahama Nenpuku Sato