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「畑打って俳諧国を拓くべし」 ブラジルに広まる俳句文化 ~高浜虚子と移民・佐藤念腹~ その1

第36回念腹忌で挨拶する寿和さん

移民と共に海を渡った俳句

ブラジル移民文学を読み解いた『遠くにありてつくるもの』(みすず書房)で2009年に読売文学賞を受賞した細川周平さん(国際日本文化研究センター教授)が当地で講演した際、「欧米の新聞には、市民の投稿作品を掲載する文芸ページは一般的にないと聞きます。日本の新聞は勿論、在外の邦字紙にいたるまで文芸欄が存在する。これは日本人の文化レベルを示している」との話をしたのを聞き、なるほどと唸った。

同著は《郷愁》をキーワードに移民文芸を概観している。例えば「日本へ一メートル近く葬られ」という句には《一メートルの近さは、生者にとっても死者にとっても慰めにはならない。それをわざわざ述べ立てたところにこの句のおかしさと悲哀が込められている》と、縁者の葬儀中に想起した移民独自の気持ちを解説している。

* * * * *

「今回が最後だと思って来ました」―10月19日朝9時、娘二人に付き添われて受付にやってきた二世の小林エリーザさん(93歳)は開口一番そういった。

これはサンパウロ市リベルダーデ区での熟年連合会の会館で行われた第36回念腹忌、第26回潔子忌、第4回牛童子忌全伯俳句大会(サンパウロ木蔭俳句会主催、朝蔭発行所後援)の開始間際の一幕だ。祭壇には3人の遺影が並び、多数の黄菊の美しい花明りの中に熱帯果実やウィスキー、デコポンも供えられた。

1千キロ以上離れたマット・グロッソ・ド・スル州ナビライやドイス・イルモンス、リオ市、聖州奥地などからも、エリーザさんのような直弟子や、孫弟子、果ては現代俳句の句人ら計47人が参加し、故人を偲びながら俳句三昧の一日を過ごした。日本の句誌『九年母』(くねんぼ)から23句もの投稿があり、うち4句が特選に選ばれた。

初期は一部の文化人のみ

南米大陸最初の邦字紙・週刊『南米』(1916年1月創刊)にはすでに俳句欄が設けられ、ハワイから転住してきた星名謙一郎社主が詠んでいた。移民史と共に俳句も始まった。第1回移民船「笠戸丸」の移住者を世話した〝移民の父〟上塚周平(俳号・瓢骨)が、耕地からの脱走者が続出する状況を憂慮して詠んだ、次の二句は当地ではあまりにも有名だ。

「夕ざれば樹蔭(こかげ)に泣いて珈琲もぎ」(瓢骨)

「夜逃せし移民思ふや枯野星」(瓢骨) 

サンパウロ州プロミッソン市にある瓢骨の句碑

戦前の農業専門誌『農業の友』でも鈴木南樹が選者を任ずるなど、ブラジルで花鳥風月を詠む活動はごく自然にあらゆる日本語媒体に織り込まれていた。まず傑出した俳人を中心に俳句会が組織され、それが母体となって新聞や雑誌に俳壇が設けられ、そこから俳誌が創刊されるのが一つの筋道のようだ。

最初は知識人を中心とした俳句だったが、佐藤念腹(1898―1979、本名=健二郎、新潟)らの働きにより、徐々に一般の移民に普及した。彼は1921(大正10)年にホトトギス初入選、〝北陸の鬼才〟高浜虚子門下の逸材と将来を期待されたいた。

虚子から「畑打って俳諧国を拓くべし」とのはなむけの句を貰い、1927(昭和2)年にブラジルへ渡り、サンパウロ州奥地の第2アリアンサ移住地に入植し、生涯を日系社会への写生俳句普及に捧げた。

今年、入植90周年を迎えるアリアンサ移住地は大正デモクラシーの波を受けた文化人が多く入植したことで知られる。当時、銀座をブラブラしているようなインテリがピアノ、蓄音機といった家財道具をもって原始林開拓に入植した様子から〝銀ブラ移民〟とも言われた場所だ。

アリアンサ移住地で始まった文芸誌『おかぼ』

「雷や四方の樹海の子雷」(念腹)

「雇ひたる異人も移民棉の秋」(念腹)

佐藤念腹

アリアンサには同じくホトトギス派の木村圭石や、島木赤彦を師として仰ぐアララギ派の歌人、当地〝短歌の祖〟岩波菊治も1926年に入植していた。

1929(昭和4)年7月には邦字紙『日伯新聞』に日伯俳壇「おかぼ」が設けられ、圭石が選についた。それまでは句会や個人の作品発表しかなかったが、選者によって選ばれた新聞俳壇はこれが最初で、大きな勢いがついた。

圭石と岩波が中心になり念腹が応援する形で、ブラジル最初の文芸誌『おかぼ』(俳句と短歌の合同誌)が1931(昭和6)年1月に始められた。最初は謄写版で刷ったが途中から活字となり12号で休刊したが、戦後活躍するものが多く輩出した。

1936年頃から「ブラジル季題」という言葉が使われるようになり、当地の独自性を強調した作風へのこだわりが生まれ、暁雪を盟主とする「花鳥研究会」がサンパウロ市に組織された。

奥地アリアンサからサンパウロ市に出て来た木村圭石を迎え、彼を発行兼編集人として1937(昭和12)年に山水会は俳句雑誌『南十字星』を刊行した。しかし、圭石が没し、3号で廃刊。ブラジル初の句集となった『圭石句集』(木村圭石遺稿集)は1939年に出された。

戦前までは日本で作句を覚えて来た文化人が中心の時代だった。

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© 2014 Masayuki Fukasawa

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