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https://www.discovernikkei.org/es/journal/2010/7/16/nikkei-leadership-symposium/

日米のあいだで活躍する日系人たち~日系アメリカ人リーダーシップ・シンポジウム~

これまで、さまざまな分野の日系アメリカ人を取り上げながら、彼らが持つ2つの視点を探ってきたが、今回は、3月3日に六本木にある国際文化会館で開かれた「日系アメリカ人リーダーシップ・シンポジウム」を紹介しながら、日米のことを考えてみたい。

日米カウンシル会長 アイリーン・ヒラノ・イノウエ氏 (写真提供:国際交流基金、撮影:髙木あつこ)

このシンポジウムは、外務省主催で2000年にはじまった「日系アメリカ人リーダー招聘プログラム」の一環として、開かれているものである。このプログラムは、毎回10名から15名の日系アメリカ人のリーダー的存在を日本に招き、日系アメリカ人と日本の間における理解の向上、関係性の強化、さらに日米関係の改善に向け、日系アメリカ人の役割を強化するための継続的な方策を講ずることを目標としている。

このプログラムで来日した日系人は延べ100人を超える。毎回、元全米日系人博物館館長で現在は米日カウンシルの会長を務めるアイリーン・ヒラノ・イノウエがコーディネーターとして来日しているが、彼女を除くと、これまで来日経験がない人を中心に選出されている。リーダーたちのバックグラウンドは、政財界、学会、法曹界、マスメディアなど、さまざまだ。

2003年から国際交流基金の日米センター(CGP)との共催になり、この年からシンポジウムが行われるようになった。

参加者の報告から見えてくる日本とアメリカ

シンポジウムには毎回テーマが設定されており、たとえば、2009年は「新たな絆の構築 変革する日系アメリカ人と日本との関係」、2008年は「日系アメリカ人との再会 移民100年の歴史を超えて」、2007年は「岐路に立つ日系アメリカ人 現在・過去・未来をつないで」である。パネリストには来日しているメンバーから数人が選ばれ、テーマに沿った話をする。

2006年に招聘されたフィリップ・ゴタンダは、以前このコラムで取り上げたので、詳しくはそちらをご覧いただきたいが、彼が、日本というフィルターを通して、日系アメリカ人、さらにアジア系アメリカ人としてのアイデンティティを獲得していく過程は実に興味深い。

2007年に来日した小学校教諭のサンドラ・タナマチは、1980年代にテキサス州のボーモントに移住し、そこで「ジャップ・ロード」と呼ばれる道路の存在に気づく。この差別用語に心を痛め、どうすべきか、それこそ、この年のシンポジウムのテーマである「岐路」に立たされた。1992年の冬季オリンピックのフィギュアスケートでクリスティ・ヤマグチが金メダルに輝いたことに力を得て、彼女は「ジャップ・ロード」の名称に反対する運動を展開し、さまざまな人の力を借りながら、名称を変えさせることに成功したのである。日系アメリカ人がどんなことにこだわっているのか、また一人の日系アメリカ人に何ができるのかがよくわかる報告である。

2008年に招聘されたサチ・コトは、日本で仕事をした経験のあるキャスターで、1970年代末に日本のケーブルテレビで仕事をしている。相槌を打つことだけを期待されていたことに不満で、半年訴え続けてニュースをやらせてもらえるようになった。そんな彼女の報告から、この時代に日系アメリカ人が、あるいは女性が日本でどのような待遇を受けていたかを垣間見ることができる。

シンポジウム参加者の一人ひとりの報告から、日米関係のいろいろな側面が見えてくる。私たち日本人と決して無縁でない。

米国雇用機会均等委員会コミッショナー兼議長代理 スチュアート・イシマル氏、IBM副社長 モニ・ミヤシタ氏、ジャン・ヤネヒロ社社長 ジャン・ヤネヒロ氏 (写真提供:国際交流基金、撮影:髙木あつこ)

リーダーとして社会貢献を考える

今年のテーマは「リーダーシップとは何か キャリア、コミュニティ、そして文化への価値観を語る」で、司会がNHK解説委員の道傳愛子、パネリストとして、コーディネーター役で来日したアイリーン・ヒラノ・イノウエ、IBM副社長のモニ・ミヤシタ、米国雇用機会均等委員会コミッショナーのスチュアート・イシマル、ジャン・ヤネヒロ社社長のジャン・ヤネヒロが参加した。ジャン・ヤネヒロはメディアの世界で、日系人としてリーダー的な存在で、日系社会に関する7つのドキュメンタリーの制作に携わっている。私も、彼女がホスト役を務めているハートマウンテン収容所(戦時中、西海岸の日系人が収容された10ヶ所の収容所の一つ)やタンフォーラン仮収容所(収容所に行く前に集合させられた場所)についてのドキュメンタリーなどを見たことがあり、その歯切れのいい語り口をよく覚えている。なお、日本側からは、キヤノンマーケティングジャパン株式会社代表の村瀬治男がコメンテーターとして参加した。

ジミー・ツトム・ミリキタニのイラストが使われた2007年シンポジウムパンフレット

今年はシンポジウムが東京で行われたが、2009年は沖縄、2008年は福岡、2007年は広島、と移民を多く輩出した県を巡回している。毎年、報告書がCGPから発行されており、2006年までは味気のない青い表紙だったのが、2007年から表紙にジミー・ツトム・ミリキタニの絵が使われており、それだけで随分明るい感じの報告書になった。ジミー・ツトム・ミリキタニについては、詩人で活動家のジャニス・ミリキタニのコラムで紹介しているので詳細は割愛するが、ニューヨークの路上で絵を描いていた日系2世の画家である。

シンポジウムでは、モニ・ミヤシタが、日系人の意識について言及した。彼女によれば、いかに社会貢献をしていくかについて、日系人の共通項があるという。それは、Respect(礼)、Excellence(秀)、それにIntegrity(誠)の3つだそうだ。この話を受けて、コメンテーターの村瀬が、当の日本でその感覚が薄れてきていること、また、長い海外生活で自分が得た信条は、Be Fair(公正であれ)であることだと応じた。

架け橋でなくプレーヤーになること

モニ・ミヤシタ氏 (写真提供:国際交流基金、撮影:髙木あつこ)

ミヤシタはまた、ある人から「架け橋ではなく、プレーヤーになるべきだ」といわれたという話を披露していたが、なるほどと私も頷いた。日系アメリカ人が日本とアメリカの架け橋になるべきかどうかについては、日系アメリカ人の中でも異論がある。日系アメリカ人はアメリカ人であって日本人ではない。「日系」の部分にこだわらず、アメリカ社会に同化していくべきだと考える人も多いからだ。しかし、プレーヤーであるべきという意見に対しては、それほど反論もないのではないだろうか。私がこのコラムで取り上げてきた人物も皆プレーヤーであり、日米の中間にいる意識はあっても、日米の架け橋になることを意識してはいないと思う。

パネリストの話が一通り済んだところで休憩があり、その間に聴衆に質問用紙が配られ、スタッフがそれを回収した。聴衆は200名くらいだったが、聴衆の数が多い場合、もっとも効率的な質疑応答の形式だ。

いろいろな質問が出された。トヨタのリコール問題、日本における女性の社会進出、黒人の大統領の誕生を受けて、日系アメリカ人の誕生はあるだろうか、など。

アメリカにおけるトヨタ問題は、まだまだ終わっていない。この問題について、スチュアート・イシマルは、以前の日本車に対するバッシング、そしてそれに関連して起きたビンセント・チン事件を想起すると述べた。ビンセント・チン事件とは、1982年にデトロイトで起きた事件で、クライスラーの自動車工場を解雇されたアメリカ人が、お前たちのせいで失業したと、ビンセント・チンを日本人と間違えて撲殺した事件である。

アメリカ人が日本車をハンマーで叩き壊しているテレビ映像を、私もいまだに鮮明に覚えている。今回は、実際トヨタにも落ち度があったので状況は違うが、車のリコールの多さはトヨタに限ったことでなく、他社の車も相当多い。バッシングの要素が少しあるように私も感じる。

日本における女性の社会進出については、パネリストから司会者の道傳愛子に質問が向けられた。日本で男女雇用機会均等法が施行されたのが1986年で、道傳はこの頃にNHKに入局している。

「私が入局したのは男女雇用機会均等法が施行された頃で、私たち女性は、仕事もでき、家庭のこともできるスーパーウーマンであることを世間から求められました。でも、女性の同僚とよく話していたんですが、まわりを見ても、スーパーマンはいませんでした」

なかなか気の利いた答に会場が和んだ。

日系人大統領の可能性については、半分冗談のような質問だと思うが、黒人大統領の誕生が予想外に早かったことを考えると、日系人大統領も思いの他、早く誕生するかもしれない。自分が生きているうちに期待したい、とスチュアート・イシマルがはにかみながら答えていた。漫画好きの方はご存知だろうが、日本のコミックの世界ではすでに、漫画家のかわぐちかいじが、『イーグル』(1998年~2001年まで『ビッグコミック』で連載)という作品の中で、日系アメリカ人大統領を誕生させている。フィクションとはいえ、9年も前に日本でそんな漫画があったことを知ったら、彼らは驚くに違いない。

このプログラムに参加した日系アメリカ人たちは、帰国した後もこの経験を活かし、違う形で来日して日米の交流に尽力している者も多いという。

架け橋でなく、プレーヤーたれ。日本人もまたアメリカに対して、一人ひとりがさまざまな分野でのプレーヤーでいたいものだと思う。プレーヤー同士の交流が深まれば、それが結果として、日米に強固な架け橋を築くことになるだろう。

(敬称略)

これまでのシンポジウムの開催地とテーマ
* 2003年 東京 「日系人コミュニティから見た現代アメリカ社会と市民運動」
* 2004年 京都 「アジア系アメリカ人の多様性:連帯に向けて」
* 2005年 神戸 「多文化共生実現への道:マイノリティの視点から」
* 2006年 名古屋「芸術からビジネスまで:多様な職業を通じた日系アメリカ人の貢献」
* 2007年 広島 「岐路に立つ日系アメリカ人 現在・過去・未来をつないで」
* 2008年 福岡 「日系アメリカ人との再会 移民100年の歴史を超えて」
* 2009年 沖縄 「新たな絆の構築 変革する日系アメリカ人と日本との関係」

参考資料
* 『日系アメリカ人リーダーシップ・シンポジウム報告書』2003~2009

参考ウエブサイト
* 国際交流基金・日米センターのサイト

*本稿は、時事的な問題や日々の話題と新書を関連づけた記事や、毎月のベストセラー、新刊の批評コラムなど新書に関する情報を掲載する連想出版Webマガジン「風」 のコラムシリーズ『二つの国の視点から』第11回目からの転載です。

© 2010 Association Press and Tatsuya Sudo

Sobre esta serie

Aproximadamente 3 millones de personas de ascendencia japonesa viven en el extranjero, de los cuales se dice que aproximadamente 1 millón están en los Estados Unidos. A lo largo de su historia, que comenzó a finales del siglo XIX, los estadounidenses de origen japonés en Estados Unidos han estado en ocasiones a merced de la relación entre los dos países, pero a través de sus dos culturas, han llegado a tener una perspectiva única. como nikkei. ¿Qué podemos aprender de estas personas que han vivido entre Japón y Estados Unidos? Exploramos nuevas visiones del mundo que surgen de las perspectivas de estos dos países.

*Esta serie es una reimpresión de la revista web ``Kaze'' de Associative Publishing , que publica información sobre libros nuevos, como artículos que relacionan temas actuales y temas diarios con libros nuevos, bestsellers mensuales y columnas críticas sobre libros nuevos.

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Acerca del Autor

Profesor de la Universidad de Estudios Extranjeros de Kanda. Nacido en la prefectura de Aichi en 1959. Graduado del Departamento de Estudios Extranjeros de la Universidad Sophia en 1981. Graduado de la Escuela de Graduados de la Universidad de Temple en 1994. Trabajó en el Centro de Servicios de Cooperación Internacional de 1981 a 1984. Vivió en los Estados Unidos de 1984 a 1985 y se interesó por las películas y obras de teatro japonesas estadounidenses. Ha estado involucrado en la educación inglesa desde 1985 y actualmente es profesor en la Universidad de Estudios Internacionales de Kanda. Desde 1999 preside el Grupo de Estudio Asiático-Americano, que celebra grupos de estudio en Tokio varias veces al año. Mis pasatiempos son el rakugo y el ukelele.

(Actualizado en octubre de 2009)

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