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「第1回三州(サンパウロ、パラナ、マットグロッソ)・パラグアイ交流お話大会」に参加して!

昨年、11月15・16両日、ブラジル、パラナ州マリンガ市で開催された「ブラジル三州・パラグアイ交流お話大会」に、パラグアイの日本語学校8校 とバイリンガル校・日本パラグアイ学院の生徒と教師、日本人会と日本人会連合会関係者合計33名が参加した。三州とは、ブラジルでも日系人が多く、また地 理的にも隣接しているサンパウロ州、パラナ州、マットグロッソ・デ・スール州の三州をさしている。

きっかけ
一昨年、2007年11月、パラグアイの日系10団体の福祉ボランティアと関係者がマリンガの「パラナ老人福祉和順会」を訪問した。これは移住70周年を経て、高齢化がすすむパラグアイ日系社会が今後の対策を考えるため、日系全体で研修する機会を持ったのである。

研修先として、「サンパウロ日伯援護協会」のもと200を超える入院ベッドと、年間50万人の来診者がある日伯友好病院を中心に活発な活動を行って いるサンパウロ日系社会と、日系人人口が6千人に満たないパラグアイでは比較にならないということで、より身近なパラマ日系社会を視察することにした。

例えば、2000年度統計によれば、サンパウロ州人口3700万人の1.9%、69万人が日系人であるのに対し、パラナ州では人口956万の1.5%、14万人が日系人となっている。ブラジル全体の日系人人口は143万人とある。

「パラナ老人福祉和順会」は1975年、家庭的、経済的、精神的に恵まれない日系老人に暖かい手を差し伸べようと、移民70周年を前にパラナ州の有 志250名で創設された。30年を経た現在、地域日系社会ならびに日本民間の協力を得て、無料で老人を引受ける施設としてはパラナ州随一の環境・待遇と言 われほどに発展している。

この研修のおり、「2008年には移民100周年を記念し、マリンガで懸案の三州合同お話大会を開催するが、パラグアイからも参加してくれますか?」という誘いがあったことが、今回のきっかけであった。

準 備
その構想は日本人連合会の後継者育成・日本語教育部門を担当する日系人教育推進委員会で2008年度事業として検討され、資金的裏付けは70周年を記念し て設立された「神原育英会」に協力が依頼された。幸い、事業計画、資金協力ともに承認され、6月から全国の日本語学校と日本人会・文化協会に参加希望者の 募集が行われた。

当初、ブラジルとマリンガ地区では、各種の100周年記念行事の実施に時間がとられ、交流お話大会の準備がすすまなかった。パラグアイ側も忙しい年間スケジュールの上に、さらに新しいスケジュールが加わるのかと、反応は冷たかった。

多くの紆余曲折がありながらも、「日系子弟と日本語学校教師により広い視野と国際感覚を持ってもらう」ことを目的にかかげ、最終的にはパラグアイ全国9校から生徒15名、教師10名、関係者8名、合計33名が参加することになった。

第1日目:11月14日

アマンバイから夜行バスで到着した参加者も含め、貸切りバスはアスンシオンを朝6時半に出発し、一路、約300Km離れた国境に向け出発した。途 中、イグアス移住地ではイタプア地方から北上してくるイタプア3校、地元イグアス校、また夜行で来ていたカピタン・バード校の参加者と合流し、昼食後、国 境の町エステに向かった。国境近くでエステ校参加者も乗り込み、いよいよ税関の順番待ちの車列に並んだ。あいにくラッシュにぶつかり出国と入国手続き、ま た国境を流れるパラナ河にかかる「友情の橋」を渡るのに2時間以上かかった。

入国手続きが終了し、バスはいよいよマリンガへの道、約400キロを走り始めた。バスが走り始め、携帯電話でマリンガに連絡を試みるが、どうしても つながらない。途中の休憩地点から連絡することを考え、夕方、運転手に尋ねると、国道にバイパスが出来たので、休憩なしでマリンガに直行したいという。

悩みながら、携帯を再度試すと、不思議なことに通じるようになっていた。さっそく、マリンガを呼び、夜9時過ぎに到着する旨を連絡し、あとは運転手 に任せることになった。マリンガ入口の国道沿いレストランで夕食をとっている時、マリンガ関係者の出迎えを受け、宿泊所のマリンガ学生寮に夜11時前、よ うやく無事に到着した。

第2日目:11月15日

朝6時過ぎ、男子部屋をノックしてみたが返事が無かったので、朝の散歩に出かけた。

今回の会場になったマリンガ文化体育協会(ACEMA)は敷地中に学生寮、日本語学校、大会を開催する会館、公式50Mプール、照明付きのテニス コート、サッカー場、屋内体育館、スタンド付き野球場2面、バックネットだけの野球場3面と駐車場など、驚くほどの施設を持っていた。この広大な施設を 800世帯会員でどのように維持するのかと聞くと、1年に1回、8日間で10万人が入場する「ニッポ・ブラジレーロ」祭りには、会員と日系社会の協力で約 10万ドルの収益が残り、これを中心に運営していると聞かされた。ちなみにマリンガは人口35万人、その中で日系は約1万5千人、4千世帯という。

朝、7時半からマリンガ日本語学校保護者協力の朝食が始まるので、男子部屋を訪ねると、ようやく目を覚ましたところだった。後から聞くと、昨夜は明け方4時まで、自己紹介や施設探検を行ったとのこと。全国から集まった皆が、一気に友達になったようだ。

朝食後、受付で参加費を払い、9時過ぎ、「三州合同・パラグアイ交流お話大会」開会式が始まった。壇上に上って挨拶された日系の方々が原稿も持たず、流暢な日本語で挨拶をされたのには驚いた。また司会は日本語とブラジル語のバイリンガルで立派に開会式を終了させた。

審査員紹介と審査方法の説明のあと大会が始まった。大会は昼食をはさみ、年齢別に3部門に分かれ、10~11才に17名、12~13才に26名、 14~16才に27名、特別参加17才2名がそれぞれ参加し、合計72名で競われた。午後4時過ぎに大会は終了し、結果発表、表彰が行われた。今回は残念 ながら、パラグアイ組は特別参加となり、採点対象にならなかった。

これは、主催者が「パラグアイの日系子弟は日本語を日常生活で使い、ブラジルの子供ではとても太刀打ち出来ないと」と考えたためであった。しかし、 発表を聞いている限り、ブラジルの子供たちの発表は見事で、あと30年後、パラグアイが移住100年を迎えるころ、これだけの発表が出来るかと危ぶまれ た。後日談では、パラグアイの教師がブラジルの子供に日本語で問いかけても、答えはブラジル語でしか返って来なかったとか。また、パラグアイの女子生徒 に、同年輩のブラジルの女の子が、「オマエたち、ニホンゴがじょうずだな」と話しかけられ、なんと答えて良いか判らなかったと、生徒の感想文に書かれて あった。

大会終了後、参加者一行は建設中の「100周年記念日本庭園」を訪問した。

そこは将来的に、マリンガ地区のイベント会場に使用することを意図したもので、10Haもの広大な敷地面積中、日本庭園が4Haを占めていた。1年 前に見学した時は、ただ広い空間だっただが、既に傾斜を利用した滝と小川、池が完成し、芝部や周囲を巡り塀など、全体の半分以上は形を成していた。

驚いたのは巨大な記念体育館、売店と管理事務所や展示室が入る二つの付属施設、茶室、記念碑などが見事に完成していたことだ。これらの建物は州政 府、各種銀行の協力記念事業として建築され、銀行のロゴマークや趣旨が記されていた。これを見て、ブラジルの社会の懐の深さと、その中で力をつけ、また実 績を積んで来た日系社会の力強さを実感させられた。

夜は、参加した学校の演劇や研究発表も行われ、最後に地元マリンガのリーダ会によるヨサコイ・ソーランと和太鼓に合わせたダンスが披露された。ダン スは曲がJ・ポップ、伴奏は和太鼓、振り付けは子供たちの考えたもので、日系ならでは出し物で、参加した各地の子供たちも体を動かし楽しんだ。話では、 「ニッポ・ブラジレーロ」の時は、会場を埋めるほどのブラジル人がこのダンスに夢中になり、カーニバルのサンバより喜ばれる催しものなのだそうだ。

また、日系社会の世代交替とともに、若者が離れて行った文化協会に、彼らを再度引き戻したのは和太鼓とヨサコイ・ソーランだという話も聞いた。

第3日目:11月16日

交流大会二日目は生徒と日本語教師、参加各団体代表者と三者に分かれて日程が組まれた。

各地区から集まった約100名と地元の生徒・学生が、マリンガ地区リーダ会の指導でゲームやプールで楽しいひと時を過ごし、また一部学生は交流お話大会の感想と、今後への意見をまとめていた。

日本語教師はJICA国際協力機構派遣・日本語教育シニアボランティアの指導のもと、各地区の日本語教育、教師活動の紹介、テーマ別グループ討議を行っていた。

また各地区の代表者約10名はマリンガ文化体育協会(ACEMA)の各種施設を見学後、交流お話大会の総括と、来年への方針を検討した。出席者一 同、お話大会の成果を高く評価したが、今後の持回り開催の提案に対しては、マリンガ以外では体制作りと準備に懸念材料があり、2009年度も今年同様、マ リンガでの開催が提案された。

また、2009年度大会に向かっては2009年4月に準備会議を開催して、実施要項を検討すること、2009年度からはパラグアイ参加者も採点・表彰の対象にすることが確認された。

昼食後の閉会式では来年の再会を約束し、ブラジル各地の参加者は帰途についた。パラグアイ参加者は夜半の出発を予定していたので、全員で冒頭に紹介 した「パラナ老人福祉和順会」を訪問した。この和順会は浄土宗マリンガ日伯寺と同じ敷地にあり、開設当初から日伯寺とその信者、またマリンガを中心にした パラナ日系社会の協力で発展してきた。パラグアイから訪問した生徒は、まずご本尊様にご焼香し、記念に鐘楼で鐘を突き、思わぬところで日本の文化に接し、 子供たちは目を輝かせていた。

その後、子供たちは施設に入園している高齢者と交流を行った。この施設は常時40名近い高齢者を20名近い職員でお世話をしているが、入園条件は 65才以上で貧困や孤老で苦しむ老人という。維持費の約70%は日系と日本の協力者の寄付と、各種行事の収入で賄われる。また、入居者の定期健康管理はマ リンガの日系、非日系の医者45名によりボランティア活動で行われている。

今後、高齢化社会がすすむであろうパラグアイ日系社会にとって良い参考事例と思われ、今回の生徒や教師の訪問により、昨年にもまして草の根レベルの良い交流が出来たと、和順会と今回と前回の交流・研修を企画した連合会関係者は喜んでいた。

その後、ショッピングセンターに立ち寄り、パラグアイへのお土産を買い、夕食を食べ、学生寮に帰りしばらくの休憩をとった。夜、11時過ぎ、お世話になったマリンガ地区日本語学校連合会の方々に見送られながら、一行は国境の町に向け出発した。

第4日目 11月17日

夜明け前、国境のフォズ・ド・イグアス(世界遺産イグアス滝の入口の町)に到着し、肌寒い中を出国手続き、つづいてパラグアイ側入国手続きもすませ た。エステからの参加者と別れ、一行は国境から40Km離れた日本人移住地イグアスに向かった。朝7時ごろ到着した日系ホテルでは、心づくしの温かい味噌 汁と玉子焼き、焼き魚、漬物のぜいたくな朝ご飯をご馳走になった。

ここで、イタプア方面の方々、またイグアスからの参加者ともお別れし、アスンシオン方面にバスを走らせた。イグアスから5時間の行程のなか、バスの中で生徒達は、年齢と学校の違いを越え、昔からの友達のように会話が弾んでいたのには驚かされた。

一方、教師や関係者のあいだでは移住100周年を迎えたブラジルの日系社会の力強さ、加えて日本語学校の中学生だけでなく、卒業した高校生や大学生 まで組み込んだリーダ会(13~22才)を通し、ともすれば日系社会から離れがちな若者達を日本語学校と日系社会に引き止め、また日系とブラジル社会の立 派な後継者として育てているマリンガ日系の見識と努力が高く評価され、パラグアイも見習うべきだと話されていた。

このような交流を可能にしてくれたマリンガ日系諸団体、パラグアイの関係日系団体、諸機関の協力に心からの感謝を申し上げたい。

* 本稿は、パラグアイ日本人会連合会(ディスカバー・ニッケイの参加団体)がその活動のひとつとして、当サイトへ寄稿したものです。

© 2009 Federación de Asociaciones Japonesas del Paraguay

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