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海を渡った日本の教育

第9回 レジストロの場合

サンパウロ州レジストロは、サンパウロ市から南西に約200キロ。パラナ州の州都クリチバに向かう国道116号線の半ばに位置する。大西洋に注ぐリベイラ川が大きく湾曲する地点で、川岸から西に向かって市街地が広がっている。

ここは、ブラジルでもっとも古い日系植民地の一つが開かれた地域である。1910年代初め東京シンジケート代表青柳郁太郎(1867-1943)らがこの地域の州有地を無償提供され、総称して「イグアペ植民地」と呼ばれるレジストロ、桂、セッテ・バーラス、キロンボなどの植民地を創設した(地図1参照)。中でも、1913年にイグアペ郡ジュッポブラに、当時の首相桂太郎の名を冠した桂植民地が開かれたのが最初である。1908年の笠戸丸移民から5年後のことであり、サンパウロ市から南へ向かう鉄道(ジュキア線)はまだ通じず、この地域に到達するには、いったんサントスに出て沿岸航路をとり、川船に乗り換えてリベイラ川を遡るしか方法がなかった。

地図1:イグアペ植民地の地図(レジストロ六十年史刊行委員会, 1978, p.4)。

この桂植民地は、最初の在ブラジル日本人会1 である桂人会を1915年に組織し、子弟に対する教育でも先駆けをなした。1916年には、ブラジル最古の日系教育機関の一つである桂日語学校を開設している(日本移民80年史編纂委員会, 1991, pp.114-115)。『レジストロ植民地の六十年』(1978、以下『六十年』)によると、翌1917年にはブラジル学校も公認されたが、すぐには教師の赴任がなかったという(p.16)。

桂植民地の北西に開かれたレジストロはイグアペ植民地全体の中心で、第一部から第五部の地区に分けられていた。この地域の「最初の学校」が開設されたのは1919年のことで、開校は翌年4月であった(六十年, pp.107-108)。同年、植民地の経営は海外興業株式会社の手に移ったが、子弟の教育問題は同社と住民たちに受け継がれた。この頃の学校建設と開校、初期の運営に至る様子は『六十年』に詳しい。少し長いが引用したい。

一九一九年学校開設、教師派遣と云う通知を受けて急拠学校建築に着手する事になる。当時は末だ植民者の組織は無く、総て会社の仕事だったが学校建設の問題は父兄の問題であり、また通学児童の問題でもあるので、会社は五月十八日、中央道路七キロの地点にある大野長一の私宅に植民者代表二十数名を集め、会社からは白鳥所長、土木担当の大野長一、試験農場の永島鼎が出席してこれについて協議した、その結果。

一、学校は日伯両語とし至急建築すること。
二、場所は植民地のほぼ中央になる中央道路七キロ、第四部への分岐点、第五支道の入口とする。
三、建築費は植民者各戸一五釺2 づつ均一に拠金する。
四、建築は校舎及教育住宅とする。
五、校舎完成迄の暫定処置として男子生徒は生森源治、女子生徒は大野長一の建物の一部を借受け、そこを仮教室に改造して授業を行うこと。

以上を決議して直ちに実行に移る。

この学校建築を請負ったのは大工は渡辺和佐太郎、左官竹下市太郎で建築費は校舎が二コントス、教育住宅が一コントス一〇〇釺、合計三コントス一〇〇釺であった。

試験農場、種畜場開設の先例から見て、この学校建築費を植民者の負担にしたのは、会社合併当時でこの建築費の支出を現地の採量では決し得なかったと云う内部事情が会社にあったのではないかと思われる。一五釺は当時の日給にして約一週間分で、また籾一袋分と云うところであり、当時は既に三〇〇家族程の入植者はあった筈だから、必要な費用は是れで間に合った筈である。

またこの建築に当っては第四部の奥から深沢深一、加藤石松、和田陸衝、田中益雄等が毎日一〇キロの道を馬で通ってこれに協力して呉れたし、附属の運動場の地均し等にも多数の人達の労力の提供に依り完成した。

この校舎及運動場は以後数年間、各部の学校が出来る迄各種の集りや、運動会の会場として使はれた。新築校舎の開校式は翌年四月一日に行はれた。この植民地最初のブラジル語学校は二年制のもので、先生は二人、教育住宅は出来て居ったが。赴任して来た先生の条件に合わずレジストロに住んだ為会社の藤田主任が毎日二人の女先生をお客様用の馬車で送り迎えをした(六十年, pp.107-108)。

この学校は中央部小学校と称され、後に第三部小学校に改称される。この後サンパウロ州内陸部やパラナ州北部に次々と誕生していく日系植民地や移住地の小学校の開設・運営の好事例であるといえる。未開拓の原野を切り開いていった日本人集団は、だいたい上記のようなプロセスを経て、植民地開設後数年で学校建設に着手したらしい。

レジストロ植民地各部ではこの後、1921年の第四部から1926年の第二部まで、倉庫や青年会館の一部を借りて学校を発足させた。また、自宅を開放し、近隣の子どもを集めて読み書きを教える私塾も各地に現れた(写真9-1)。1932年には、補修学校と呼ばれる高等小学校課程を終えた子どもたちが進学する上級学校も出現した。

写真9-1:第二部小学校(1930年代初期か。松村昌和氏提供)

当時の子どもたちの日常生活を偲ぶのに面白い資料がある。『六十年』には、中央部小学校女子部の写真(写真9-2, 撮影年月日不明)が掲載されているが、女の子たちはいずれも裸足である。もっとも戦前期のブラジル農村では、ふだん子どもは裸足が当たり前で、レジストロ生まれのある日系二世の男性(1921年生まれ)は、15歳になるまで靴を履いたことがなかったという。レジストロは雨が多い地方で、今でも市街地を抜けるとぬかるんで車が通れなくなることがある。

写真9-2:レジストロ最初の学校(レジストロ六十年史刊行委員会, 1978, pp.108)

「裸足で何キロもの道のりを通学した」というのは各地で聞く話である。「学校の近くまで来ると、小川でみんな足を洗ってね。足をキレイにしてから学校に入るの」とある二世の女性。「冬がつらかったね。ただ、日本人もブラジル人もみんなが裸足だったから、なんとも思わなかった」と、また別の女性。「足の裏の皮が分厚くなってよかった」というのは、80年間農業をしてきたという二世の男性。通学は大きい子と小さい子がいっしょになって、野道を集団で行き来したそうだ。何年生の時がいちばん楽しかったですかという質問に、ある男性は「6年生の時がいちばんよかった。学校の行き帰りに上級生によくいじめられてね。6年生になって、これでいじめられずにすむと思った」という。

しかし、だれもが学校に通ったわけではない。1923年生まれのHYさんは、父が私塾を開いていたため、読本の巻5までは父に習った。母が早く亡くなり、長女で幼い弟や妹がいたため、家の仕事を手伝わなければならず、「自分が学校に通ったのは、3年生と4年生の1学期ずつだけ」だったという。「コーヒーの収穫がはじまる6、7月からは忙しくなり、学校に通うヒマなんてなかったです。でも、学校には行きたかったですよ」畑が通学路沿いにあったため、「友達の声が聞こえてくると、樹の陰に隠れたりしてね」。農村では10歳ぐらいになると立派な働き手で、過酷な労働に追われた子どもたちは学校に行くことによって、しばしの休息を得ていたようだ。

HYさんの弟で、第五部小学校とブラジル学校の両方に通ったというO氏とともに、現在でも未舗装の道路を車で小学校の跡地へ行ってみた。運動会や他の催しがにぎやかに行われたという運動場が残っており、道をはさんだ横の藪の中にかつての小学校があったという。すぐ近くに最近までブラジル学校があったそうで、氏は雨の日も風の日も約5キロの山道を二つの学校まで通ったという。現代の私たちの感覚からすると、相当過酷な条件だ。「5キロというと1時間ぐらいですか?」と聞くと、「道草しなかったらね。でも、道草しないでまっすぐ帰るなんてことはあまりなかった。家に帰ったら、仕事せんといかんからね」と、氏は破顔一笑した(写真9-3)。

写真9-3:第五部小学校の跡地を説明するO氏(左側)

教育文化、特に学校をめぐる子どもたちの生活世界を明らかにするためには、こういった遊び・娯楽と渾然一体化した通学の習慣、先生の渾名命名、家業の手伝いなどの生活習慣をぬきにして考えることはできない。

この第五部小学校の初代校長であった仁戸田庸吉郎氏によって作詞された同校校歌を紹介しておきたい。

マテウス谷の中央に 宏大而(しか)も傲(おご)らざる
雄々しき姿の建物は 我が第五部の学舎(まなびや)よ
塵煙はるかに隔絶し 斧鉞(ふえつ)入らざる森繁り
鳥は囀り胡蝶舞ふ 清き流れの川源(みなもと)は
細鱗泳ぎ水禽浮ぶ 自然の情趣自ら
人の心を清むらむ(以下略)

注釈
1. 1940年には、480団体が存在したといわれる(日本移民80年史編纂委員会, 1991, p.116)。
2. 「釺」は、当時の現地通貨ミルレースの当て字。

参考文献

日本移民80年史編纂委員会(1991)『ブラジル日本移民八十年史』移民80年祭典委員会

レジストロ六十年史刊行委員会(1978)『レジストロ植民地の六十年』

仁戸田庸吉郎「第五部小学校々歌」 (作詞・作曲年不詳、玉田正氏提供の筆写ノートによる)


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© 2009 Sachio Negawa

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Sobre esta serie

ブラジリア大学の根川幸男氏によるディスカバー日系コラム第2弾。「日本文化」の海外展開、特に中南米での事例として、世界最大の日系社会を有するブラジルの戦前・戦中期 から現在にいたる日本的教育文化の流れと実態をレポート。