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第14回 華人系・韓国系の東洋街進出

最近、サンパウロ東洋街でよく耳にするのは、「ここが日本人街だったのは昔の話。今は中国人や韓国人ばっかりになってしまった」という日系人の嘆きであ る。繁体字や簡体字の看板だけ見て歩いても、華人系商店の進出のいちじるしさがわかる(写真14-1)。実際、ブラジル日本文化協会の古びたビルの、交差 点をはさんで斜め向いに2005年に建設されたブラジル客家活動中心(地上4階・地下3階)のモダンな姿は、東洋街における華人系プレゼンスの増大を視覚 的にも象徴している観がある(写真14-2)。

筆者が髪をカットしてもらっているコンセリェイロ・フルタード通りの若い理容師さんも、広東出身の華人ニューカマーである。ポルトガル語は、挨拶程 度。日本のヘアカタログを指差して「これ」と言うと、うんうんと頷いてそれらしくカットしてくれる。シャンプーは少しポルトガル語をしゃべる義理の妹とい う女の子がやってくれる。仕事が速く、トータルで20分とかからない。値段は20レアイス(=約1200円)だから安くもないが、50~100レアイスも とるヘアサロンが多数存在するサンパウロでは高いとも言えない。あのポルトガル語でよくやっているなと思うが、見たところ客の三分の二は華人で、その他が 筆者のような日本人や非アジア系のブラジル人だ。腕がいいためか、けっこう賑わっている。

東洋街の中心ガルヴォン・ブエノ通りに比べて、やや場末感のただようコンセリェイロ・フルタード通りには、聖保羅中華会館、巴西広東同郷会、巴西観 音寺弘道院などの華人系施設があり、かなりの華人系商店・レストランが軒を連ねている。この通りからリベルダーデ広場へ上っていくエストゥダンテス通りに も、華人系商店がひしめいている。東洋街には、日系と同じく、華人系ショッピングセンター、ホテル、料理店、バー、カラオケ、おみやげ物店、雑貨店、新聞 社、旅行社、医院、理容・美容院、学校、キリスト教会などが見られる。また、ガルヴォン・ブエノ通りやグロリア通り、トマス・ゴンザーガ通りには、いくつ かの韓国系商店・レストランが点在する。これらの華人・韓国人はいつごろから東洋街に進出するようになったのであろうか。

まず、華人のブラジル移民は、半ば伝説めいた話だが、ドン・ジョアン6世治世の19世紀初頭に約400人のクーリーが入国したのが最初と言われる。 彼らはリオ・デ・ジャネイロで茶の栽培に従事したとされるが、その後四散してしまい、その痕跡をとどめていない。1930年代末に行われたサンパウロ市外 国人居住者調査では、「日本人」4563人が確認できるものの、「中国人」「韓国人」というカテゴリーは見られない(ARAÚJO, 1941, pp.68-72)。ブラジルの華字紙巴西美洲華報によって編纂された『巴西華人耕云録』(1998)によると、1930年のサンパウロ市における華人総 数は100人に満たなかったという(p.17)。第二大戦後の華人移住の第一波は、1949年の中華人民共和国成立から60年代までで、資本家や国民党の 軍・政府関係者などがブラジルへ逃れてきた(山下, 2007, p.84)。また、香港やマカオ、広東からの移住もこの頃行われた。ポルトガル語が不自由で小資本しか持たない華人系移民のほとんどが、洗濯業や飲食店経 営に従事し、特に餃子と似たブラジルのファーストフィードであるパステスの販売は、広東系移民の独壇場であったという(巴西美洲華報, 1998, pp.379-381)。

また、1960年代前半に中華民国との間で個別に移住協定が結ばれ、台湾からの組織的なブラジル移住が始まった。1971年の中華民国の国連脱退時 には、多くの台湾人が将来に不安を抱き、ブラジルへの移民も加速した。現在、ブラジル全体の華人系人口は20万とも30万とも言われ、その9割はサンパウ ロ周辺に集中している。

一方、韓国系は、戦前ブラジルに移住した少数の朝鮮出身者がいたことが明らかにされている(全, 2006, pp.93-96)が、公的移民が始まったのは1963年のことだ。彼らは農業移民としてブラジルに移住したが、縫製業に進出することによって、急速に都 市化していった。1972~73年が韓国からの移民のピークであり(CHOI, 1991, p.112)、この時期にかつて日本人街であったコンデ界隈にヴィラ・コレアーナ(Vila Coreana)と呼ばれる韓国人の集住が見られた(同, pp.97-99)。戦前・戦中世代は日本語教育を受けており、東洋街の存在するリベルダーデ地区周辺に居住することによって、邦字紙や口コミの日本語情 報を十分活用でき、生活や求職に関する情報収集のメリットは大きかった。

1972年に韓国から移住したSC氏によると、韓国系移民のほとんどは縫製業にたずさわっていたという。「日本人街だったコンデの通りに残る古いア パート住民のほとんどはチョウセン人で、一晩中ミシンの音がやまなかった」と語る。韓国人コミュニティの中心はキリスト教会で、付近には今も韓国系教会が 存在する(写真14-3)。現在、ブラジルの韓国系住民は約6万人と言われ、その9割がサンパウロ市周辺に居住する。最近では、東洋街以外よりも、ボン・ レチーロ地区に多くの韓国系商店が展開し、韓国人街を形成している(写真14-4)。

同じ頃に始まった台湾からの移民も、韓国系と同じく言語上のメリットや影響を受けていた。台湾系を中心に日系・韓国系も経営参加するSOGOショッ ピングセンターは、東洋街でもっとも大きな店舗の一つだ。内部は約130の小店舗が入居しており、中二階には日・韓・中のメニューをそろえたレストランが ある。興味深いのは、ショッピングセンター全体の名称が日本のそごう百貨店をもじったSOGOであるだけでなく、1階がピソ・トーキョー、2階がピソ・ キョウトなどと名づけられており、東京の風景や祇園祭りのパネルを掲示し、「日本色」がアピールされている点だ。日本語と日本文化の影響を受けた台湾系華 人の複雑なアイデンティティと東洋街の微妙なエスニック・バランス、そしてそれを裏返しにした逞しいまでの商業戦略が見て取れるようだ。

東洋街の中心リベルダーデ広場やガルヴォン・ブエノ通りでレストランやスーパー、ベーカリーなどを経営する台湾系のQ氏は流暢な日本語を話す。「最 初は日本人と組んで寒天を製造していた。日本の人たちがどんどんこの街から出て行って、その後にお店を買い取ったんだよ。でも、私たちの子どももあまりこ ういうお店をやりたがらない。今は大陸の人たちがどんどん入ってきているよ」。

90年代以降は大陸系華人のサンパウロ市への移入が増加傾向にあり、リベルダーデ地区でもこういったニューカマーの動きはめまぐるしい。東洋街で は、バロンデ・イグアッペ通りやグロリア通り、先述したコンセリェイロ・フルタード通りが華人系商店の密度が高く、見方によってはミニ・チャイナタウン的 な様相を呈している。

ただ、一口に華人といっても、広東系、台湾系、客家系、福建系、上海系、北京系、山東系などのサブグループが確認でき、それぞれに同郷会・親睦会な どを有し、独自のネットワークを持っている。各グループの構成メンバーも、大陸生まれ、台湾生まれ、日本生まれ、インドネシア生まれと出生地もさまざま で、複数グループに属する人も多く、帰属意識やアイデンティティも単純ではない。また、東洋街だけでなく、ヴィンチ・イ・シンコ・デ・マルソ(3月25 日)通り周辺には、多くの華人系スタンドショップが入店したショッピングセンターが集中しており、ひじょうな活況を呈している。

最近の注目すべき出来事としては、2006年からブラジル中国青年会議所の主催で春節祭(Ano Novo Chinês)が、東洋街で大々的に祝われるようになったことだ(写真14-5)。同会議所は、台湾や大陸出身の一・二世華人青年で構成されているが、春 節祭には日系青年も協力しており、東洋街の一つの将来像を映し出しているようだ。今年2008年1月26~27日には、第三回春節祭が開催され、約10万 人の観客が訪れた。

ただ、見落としてはならないのは、行政と結びついた形で今なお東洋街のヘゲモニーを握っているのは、あくまでも日系商人であるということである。こ のエリアを「日本人街」や「リトル東京」とせず、「東洋街」という名称を選んだのも日系商人たちであり、現在もなお、ACAL(リベルダーデ文化福祉協 会)といった商工業組合、サンパウロ州軍警当局との協力関係を持つ治安維持組織CONSEG(リベルダーデ治安協議会)などは、幹部のほとんどが日系人で 占められている。2005年には、ガルヴォン・ブエノ通りのあちこちに店を広げていた華人系露天商の多くが排除された。ACALとCONSEGの幹部を兼 ねる日系のNF氏は、「露天商の多くは非合法で、日系商店だけでなく、ちゃんと納税の義務を果たしている韓国や華人系商店にもしめしがつかない」と言う。 その一方、店舗を構える華人は、ほとんどが家族経営の小規模商店ながら、伸び悩む日系を押さえて確実にその地歩を築いているように見える。

サンパウロ東洋街をめぐる華人・韓国人の動向は、世界におけるそれを反映してめまぐるしく変化しており、その全体像を把握するのは容易ではない。し かしいずれにせよ、東洋街において、そのプレゼンスを増大させているだけでなく、このエリアの多様性を拡大させているのは確かである。

参考文献
全淑美(2006)「日本植民地時代に『契約移民』としてブラジルへ移住した朝鮮人一家」『東アジア研究』第46号大阪経済法科大学アジア研究所pp.93-106

根川幸男(1998)「サンパウロ東洋街の形成と変容に関するノート」In. Anais do IX Encontro Nacional de Professores Universitários de Língua, Literatura e Cultura Japonesa e I Encontro Latino Americano. Assis, Unesp, pp.242-249.

山下清海(2007)「ブラジル・サンパウロ-東洋街の変容と中国新移民の増加-」『華僑華人研究』4号pp.81-98

巴西美洲華報編(1998)『巴西華人耕云録』巴西美洲華報社

ARAÚJO, Oscar E.(1941). “Latinos e Não Latinos no Município de São Paulo”. In. Revista de Arquivo de Municipal de S. Paulo LXXV. São Paulo, Divisão do Arquivo Histórico, pp.65-98.

CHOI, Keum Joa(1991). Além do Arco-Íris: A Imigração Coreana no Brasil. São Paulo, Dissertação de Mestrado da FFLCH/USP.

* 本稿の無断転載・複製を禁じます。引用の際はお知らせください。editor@discovernikkei.org

© 2008 Sachio Negawa

Sobre esta serie

El Bairro Oriental de São Paulo, viviendo dentro del caos de sus muros, la misma pregunta cruzó por mi dolorosa mente. '¿Por qué estos japoneses cruzaron el océano y construyeron una ciudad a mitad de camino a través del planeta?' En esta columna, el autor transmite la historia y el estado actual de los Japantowns en Brasil que visitó, siendo al mismo tiempo consciente de la pregunta anterior.

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Acerca del Autor

Sachio Negawa es profesor asistente en los departamentos de Traducción y Lenguas Extranjeras de la Universidad de Brasilia. Experto en Historia de la Inmigración y Estudios Culturales Comparados, vive en Brasil desde 1996. Se dedicó plenamente al estudio de las instituciones de aprendizaje en las comunidades japonesas y asiáticas.

Última actualización en marzo de 2007

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