「きょう町で外人をみたわ!」
小学生だったTAさんは、ある日学校から帰るなり息せき切っておかあさんにそう報告した。TAさん、もう80歳は越えているはずだから、そんなこ とがあっても不思議はない。地方の県庁所在地に暮らしていた私にとって、たまに見かける外国人が目を離せなくなるほど珍しい存在だったのもやはり小学校の 低学年の頃だった。その私の年齢がTAさんのおよそ半分でしかないことを思えば、むしろその当時ならだれでもが経験するようなことだったろう・・・日本で だったら。
もちろんここで日本の昔話をしようというのではない。TAさんは、これをブラジルで経験した。
TAさんが暮らしていたのは、いったいどんなところだったのだろうか。
現在ブラジルの日系人は、一般にずいぶん同化が進んでいるといわれるが、その傾向に拍車がかかったのは戦後のことで、それまではサンパウロ州、パラ ナ州の田舎を中心に、日本人移民は新しく開拓した土地などで集まって暮らしていることが多かった。そういったところでは、同化どころか基本的に日本的な暮 らしが営まれていた。共通語は当然日本語、部屋にちょっとした神棚があることも珍しいことではなく、日本人移民は日本人移民同士結婚することが当たり前だ と思われていた。
そういった、日本人が集まった町を「植民地」と呼んだが、その「植民地」より少し遅れて、大正の終わりから昭和のはじめごろにかけて「日本人移住地」というものがいくつか作られた。そこは「植民地」以上に日本的だった。
「日本人移住地」が「植民地」より日本的だった理由には、後者が移民して契約労働者として働いた後地主になった人びとによって作られたのに対し、前 者には、あらかじめ地主として、日本から直接移民してきた人たちが多く含まれていたことがまずあげられるだろう。それにまた移住地には、いわゆる国策移住 の名の下に、母国政府の力で学校、病院、産業施設などさまざまな設備が早々整えられていたことも少し影響しているようだ。「日の丸移住地」などと言って、 ブラジルで苦労した人たちの中には冷ややかに見るむきもあったようだが、日の丸に庇護されている分、やや無遠慮に日本的な生活ができたのではないかと想像 できる。
TAさんがいたのも、そんな日本人移住地のひとつだった。
TAさんの育った移住地―仮にA移住地としよう―は、現在市制がひかれて人口2万ちょっとの町になっているが、元はまったくの原野だったところを、日本人が伐り拓いて作り上げた。サンパウロから州奥地に向けて五百数十キロのところにある。
「移住地」が日本的であるためには、当たり前だが日本人の圧倒的な多さが必要になる。冒頭に紹介したTAさんの話も、結局はいかにそこが日本人ばかりだったかということを伝えるエピソードのひとつだ。
ほかにも、A移住地における日本人の多さが知れる話はいくらでもある。
視覚的に理解するには、この写真などちょうどよいのではないかと思う。小学校の集合写真だ。昭和8年頃、校庭で撮影されたものだ。
この学校は、A移住地の中心にあった。移住地には最終的に十ほどの小学校ができるが、ここは常に最大の規模をほこり、最盛期には300人を超える生徒が在籍していた。
全体では、ざっと200人ほどの子供たちと、10人に足りない、教員と思しき面々が写っている。この中に日本人とは異なる顔立ちの生徒を見つけ出す ことができるかどうか、目を凝らして試してほしい。おそらく、昔の日本の、普通の小学校の集合写真にしか見えないだろう。ブラジルの小学校ですといわれて も、とまどうはずだ。
この学校は日本人の入学しか認めなかったというわけではもちろんなく、その地区では唯一の学校だった。ブラジルにあって、ほぼ全校生徒が日本人だったいうだけの話なのだ。
ブラジルに移住した日本人がいる、それもたくさんいるらしい、というところまでは、今の日本の若いひとたちにもある程度知られている。けれども実 際、ブラジルに日本人移民たちのどんな暮らしがあったのか、ということを知っているひとはめったにいない(自分がついこの間までそうだったから、断言して も許されるだろう)。
そんな状況だから、「日本人移住地」のことを知っている人はさらに限られるはずだ。
これから何回かにわけて、ブラジルにあった日本人移住地(今も十分その名残はある)の話を書き留めておきたい。ブラジルにかつてあった、どっちを向いても日本人ばかりの不思議な町のことが、もう少し人に知られてもいいように思うからだ。