Sadao Tome

1941年8月、沖縄県本部町生まれ。学習研究社などの勤務を経て1969年に渡米。グレンデール市立大卒、カリフォルニア州立大(CSULA)に編入・中退。2005年、6年の2年間北米沖縄県人会会長歴任。現在「北米沖縄県人会歴史書編纂」委員長。琉球新報アメリカ通信員。08年に日本エッセイスト・クラブ会員に認定される。著書「アメリカに生きる」。

(2011年1月 更新)

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意欲に満ちた沖縄からのインターン生

県の事業の一環として

「日本の若者の海外留学が激減─内向きの危機感」など、日本のメディアが若者の将来に懸念を示すようになって久しい。留学が減ったのは、学生らが「海外留学などしていると就職面で立ち遅れる」という不安を抱いているためだろうが、沖縄県からロサンゼルスへ2月中旬から下旬にかけて2週間インターン(就業体験)をした4人の学生と接して、今の学生らに対する懸念は払拭しなければならないと考えを新たにした。前向きで真摯な彼らの態度から将来の日本の若者の姿が浮かび上がったと言えば言いすぎだろうか。

インターン生の研修事業は、人材育成を目的として、多くの学生に海外でソーシャルビジネス(社会事業)を経験させる沖縄県の事業の一環。今回の4人が、第1回の大学生インターンとなる。北米沖縄県人会とリトル東京サービスセンターで2週間研修した4人は、それぞれが違った角度から自分なりのアプローチで課題に取り組んだ。今回の研修が、10月に開催される第5回世界のウチナーンチュ大会へのプレゼンテーション(成果発表)と将来の職業への足掛かりをつかもうと前向きに挑む彼らの心の支えになると期待が寄せられている。4人のインターン生は40人の候補者の中から選ばれた。

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インターン生の大志

ファッションショーの企画を提案、将来は映画監督かプロデューサー、あるいは俳優になりたいとの希望を抱く神田青さん(22)は琉球大学法文学部4年次生。北米沖縄県人会に研修中、県出身のプロと出会い、ファッションショーのプロジェクトへの協力を要請。山野流着装教室ロサンゼルス支部事務局長の押元末子さんや、ニューヨークのブロードウェイで活躍するミュージカルで名高い高良由香さんらが協力を約束した。

「社会福祉の観点も取り入れながら、子供から大人まで、幅広く、地域を活性化させる仕組みを創りたい」と話すのは比嘉千穂さん(20)。琉大社会学部2年次生。沖縄のシーコロジー(海の環境保全)に深い興味を抱く。シーコロジーは民族植物学者のポール・コックス博士が提唱し、非営利団体を創設。同博士とアメリカ本部事務局長のドゥエイン氏らが中心になって、世界中の絶滅の危機にある島の環境と文化を保護することを目的とした活動を展開している。

琉装のデザインに興味を持つ田仲敦美さん(20)は沖縄国際大学法律学部2年次生。「琉球の民族衣装の魅力を世界の人々に知ってもらいたいというアイディアから、デザインの一部をカジュアルな洋服に取り入れてみてはと考えました。取り組みへの一歩をロサンゼルスの沖縄県人会で得ることが出来ました」とふり返った。同時にファッションモデルに深い興味を抱く。沖縄出身のファッションデザイナーと接触して自分の将来を考える。父は茨城県、母は鹿児島県出身の沖縄生まれである。

経済学部環境政策で日米の交換留学生の育成と取り組む新垣哲平さん(21)は沖縄国際大学4年次生。人材育成で沖縄の発展を夢見る。

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宮里大八琉球大学特命准教授の観点

4人のインターン生の指導者として琉球大学特命准教授の宮里大八さんが訪米したが、宮里さんらは帰国後、4月6日に沖縄で開催されたシーコロジージャパンの「地球を守ろう」セミナーに参加した。岸本正之・多摩子夫妻がシーコロジージャパンの顧問を務めており、宮里さんは「セミナーの最後の挨拶で岸本さんが語った『地球市民的な発想で沖縄から世界の平和を願おう。そのためにはグローバルな視野を持つリーダーが必要』という言葉には深い感銘を受けた。それは、まさしく私が目指しているビジョン、夢、志と一致した」と伝えてきた。

「2050年までに沖縄からノーベル賞を!」という彼の夢は、沖縄にある軍事基地を全て「平和の基地」に変えていくこと。宮里さんは米国を訪れていた際、「今回の東日本大震災で改めて、日本の中での防災及び災害支援のあり方、日本国内や世界からの救援物資が届く際の供給基地、または被災した家族や子ども達を受け入れるための場所、そういうことでも、沖縄は貢献出来ると信じている」と主張した。私は、彼の貴重な意見に共感を覚えた。

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シーコロジー講演会の感想文

4月6日に沖縄で開催されたシーコロジーのセミナーは満員だったという。世界で初めてサンゴの人工養殖と産卵に成功した金城浩二さんとコックス博士も講演したが、インターン生の田仲敦美さんと比嘉千穂さんが感想文を送ってきた。

「金城さんの志に向かってひたむきに尽力する姿に感銘を受けました。飾らない、とても素直な人で、幼少から社会人になってサンゴを守ることになるまでの経緯を正直に面白おかしく語り聞かせてくれました。最後に残してくれた言葉で『志で飯は食っていける』というのが一番私の心に残りました。彼はサンゴを守るために全力を尽くしていたとき、借金地獄に陥ってしまい友達に相談をするのですが、そのときいわれた言葉が『志では飯は食っていけないよ』だったのです。

私もその言葉に足をとられて本当にやりたいことから意識的に眼をそらしていた一人だったので、何度となく苦い経験を繰り返した金城さんが最終的に根性と忍耐力とひたむきな想いで大成功を収め、『志で飯は食っていける』ことを証明したお話は私に臆せず夢へ立ち向かう勇気を与えてくれました。

ロサンゼルスでのインターンから、確実に私の『挑戦』への臆病さは少しずつ消えてきているように感じます。自分を信じて精一杯努力を重ね続けると、絶対に夢はかなうのだ。当たり前なことかもしれませんが、実際に成し遂げた金城さんの言葉は強い説得力を持って深く心に響きました。ロサンゼルスで得た体験が、沖縄に帰ってきても続いていて今回の実り多い時間をすごせたことに感謝します」(田仲さん)

「金城さんが『誰かを批判している間は何も変わらない』とおっしゃっていたのが印象に残りました。そして『志で飯は食える』という表現、そのためには自分が変わる、できる方法を探す、まずは行動することが大事だという事です。3つとも今私が取り組めることで、『志で飯は食える』ということを喜びながら証明してみたいと思いました」(比嘉さん)

この感想文を読みながら、2月の研修で得たものが確実に2人の中に育っているとの手応えを感じることができた。これらの若者らの将来に期待したい。

 

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広がる「ゆいまーる」精神 -進出企業と沖縄系社会の「出会い」から- その2

>>その1

沖縄系社会との出会い

大城さんは一人息子の博樹さんを副社長に据え、米国での事業を展開していった。

博樹さんはまず、沖縄系の人たちの家庭を訪問、還元水生成器の機能について懸命に説明して回った。日夜こうした地道な努力を続けた。沖縄の人たちだったからこそ、訪問を快く受け入れてくれたのであり、説明を快く聞いてくれたのだった。こうして次第に販路を拡大していった。

その後、販売対象を日系社会へ、そして米国一般社会へと広げ、さらに努力を重ねていく。

2年後、ロサンゼルスに次いでニューヨーク、シカゴ、ハワイに支店を設置、サンフランシスコにも支店をオープンした。今後ヨーロッパへと販路を伸ばし、グローバル化への道へとつながっていくことになるが、ヨーロッパ進出の夢は、05年にホワイトハウスで開かれた大統領の朝食祈祷会にアドバイザーの前原さんが招待され、同伴でワシントンを訪れた際に芽生えていたものだった。

こうしてエナジック社は順調に事業を拡大していったが、大城さんは、米国進出当初の沖縄県系社会との出会いを一時も忘れていない。「ゆいまーる」精神である。

大城さんはそれを、北米沖縄県人会への寄付という形で実現していった。寄付は再三再四にわたるが、大きいものでは、ガーデナ市にある沖縄県人会館のエレベーター設置に向けての金銭的援助だった。

県人会館は99年に開設。その後、3つのビルを改造して、県人会センター、山内ビル、東ビルとして会員に利用されているが、センタービルの二階にある事務所と図書室へのアクセスが、特に高齢の会員らには不便をきたしていた。そのためエレベーター設置の必要性が叫ばれていたのだが、それを知った大城博樹さんは05年、県人会を訪れて5,000ドルを寄付した。

また、北米沖縄県人会創立100周年を迎えた09年には、100周年記念実行委員会に1万ドルを寄付。「利益の還元」を着実に進めていった。

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「世界大会」の涙

エナジック社の米国支社設立7周年のコンベンションはラスベガスのマリオットホテルを会場として開かれた。米国での販売数はこのときまでに15万台。年間総売上額は200億円に達していた。7周年記念の大会は、これまでの足跡を振り返りながら、それを今後の事業展開のバネにしていくことを期したもので、還元水の人体に与える機能について医師にスピーチしてもらうなどしたが、メインはそれぞれの国のエージェントの体験談をみんなでシェアするという「証言」の時間。世界20カ国から参集した1,300人のうち、トップセールスの250人が体験談を次々に語った。

今はトップセールス・エージェントとして、コンベンション会場で表彰されたある男性のエージェントの話は、大勢の参集者の注目を集めた。彼は還元水生成器を購入した後、経済的に厳しい状況に陥ってしまい、一切の支払いが滞ってしまった。どうしようもなく、自殺まで考えたという。しかし、その話を耳にした大城さんは自分のポケットマネーを融通し、彼を窮地から救った。情けに感動した彼は一大奮起してセールスに邁進。それから半年後のトップセールス・エージェント表彰だった。

チリから親子3人で出席した元ミス・チリのロージー・デーニャさんの話も感動的だった。

チリにはまだエナジック社の支社はないが、還元水のことは聞き知っており、コンベンションで大城さんと会うことができたことに深く感謝。最近起こったチリでの炭坑事故のことに触れ、「炭坑から奇跡的に救出された鉱夫たちに還元水を飲んでもらって、一日でも早く元気を取り戻してほしい」と述べ、「そのためにも、チリ支社の設立を」と要望した。

支社のないチリからの参加者が、人に情けをかける「証言」をしている。そして、情けをかけられたことが、いかに人に影響を与えるかの「証言」。沖縄系との出会いから始まったこの7年の「ゆいまーる」の道は、こうして一つの一里塚に達した。その感動が涙となった。

大城さんは、7年間にわたって見て、感じて、そして体験してきた米国のエネルギーに感銘を深めており、今後、営業本部を米国に移す意向も表明した。

大会の最後は、大城さん得意の三線。沖縄および琉球文化(沖縄音楽)を代表する弦楽器の三線だ。大城さんの演奏に呼応するように、妻の八重子さんが踊る。参加者は全員総立ちで大きな拍手を送った。

こうして大城さんの「ゆいまーる」精神は、これからも沖縄系の人たちに囲まれながら、着実に広がっていくにちがいない。それが大城さんの意向であり、沖縄系の人たちの確信である。

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*本稿は、長島幸和氏による編集です。

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広がる「ゆいまーる」精神 -進出企業と沖縄系社会の「出会い」から- その1

電解水生成器製造販売のエナジック社(大城博成会長、本社・東京)は2010年10月、米国支社(比嘉孝一郎副社長、トーレンス市)の創立7周年を記念して、ラスベガスでコンベンションを催した。同社は現在、世界11カ国に支社があり、販売活動は欧米やアジアの55カ国におよぶ。コンベンションには20カ国から1300人のエージェントらが参集、文字通りの「世界大会」となったが、大城さんが席上訴えたのが「地域社会に利益を還元しながら企業の拡大を図っていく」という経営理念だった。そこには、出身地・沖縄で母親から常日ごろ聞かされていた「ゆいまーる」の精神があった。「ゆいまーる」は「共に助け合っていくー自分を捨てて人に情けをかける」という沖縄の言葉だ。大会でスピーチしながら、大城さんの胸に、米国進出に際してさまざまな形で受けた米国在住の沖縄系の人々の温情がよぎっていたことは間違いない。そして、その温情に報いようと努めてきた7年。各国のエージェントの体験談を聞きながら大城さんが涙する一幕もあったが、それは「ゆいまーる」の精神が国境を越えて広まったことを目の当たりにすることができ、感きわまっての涙だったのかもしれない。

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「還元水」との出会い

大城さんは1941年、国頭郡久志村(現・名護市)生まれ。45年3月に米軍が沖縄に上陸。久志村は沖縄戦に直接巻き込まれたわけではなかったが、村民が山中に逃げ込み、マラリアで姉と弟を亡くした。大城さん本人も重いマラリアにかかり、死線をさまよったが、奇跡的に快復。この経験が「生まれ故郷にできるだけの貢献をしたい」という気持ちとなった。

戦後、那覇商業高校に進学。2年生の時にキリスト教の洗礼を受けた。その後、久志村役場の税務課に勤務。7年後、税理士になるため上京し、会計事務所で経験を積んでいたが、2年後に長兄が事故で重体となったため帰郷。しかし、一旗揚げたいという夢を捨て切れずに再度上京し、今度は計算機を扱う会社に経理マンとして就職。ただ、大阪に転勤後、技術革新の中で計算機の価格がみるみる下落し、会社は倒産という事態に。

そんな折、知り合いの大阪ソニー販売の社長に勧められて、沖縄にソニー製品の販売会社を設立。ソニーの「ベータマックス」を、沖縄だけでなく、鹿児島、宮崎、熊本など、九州にも販売していった。

しかし、事態はまた暗転。ベータマックスがVHSに押され、敗れたのだ。業績は一気に悪化。社員も次々に辞めていき、会社は廃業状態に陥った。当時を振り返って大城さんはこう話す。「本当に死を意識した。一家が離散するほど苦しい時だった。しかし、考えてみると、当時は自分が助かるために商品を売っていた。そこには、自分を捨てて人に情けをかける『ゆいまーる』の精神はなかった」

「ゆいまーる」の道を求めて、大城さんの模索が始まる。そんな時、東京で開かれた還元水についての講演会に足を運んでみた。88年のことだった。講演を聞いて、大城さんは思った。「健康維持のためにこれを人々に提供することで、生涯をかけて人のために尽くすことができる」。運命の出会いだった「ゆいまーる」精神を生かす道を求めていた大城さんだったからこその出会い。ある意味で必然の出来事だったのかもしれない。

事業発展で米国進出

大城さんは、沖縄でのソニー製品販売のため、74年に「日本シグマック」を設立していたが、ほとんど休眠状態だった同社の社名を「エナジック社」に変更し、90年に電解水生成器の販売を開始した。2001年にはメーカーを吸収合併、製造から販売まで手掛けるようになった。

電解水生成器の販売は、高齢化や医療費の高騰の中、順調に伸びていった。治療医学から予防医学、抗加齢医学への流れが追い風となった。

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日本での販売数が飛躍的に伸びる中、大城さんは友人から米国進出を勧められた。03年のことだった。だが、米国にはあてがない。しばらく思案しているうち、那覇商高時代の同期生がロサンゼルス方面でビジネス・コンサルタントをしていることを思い出した。前原利夫さんだった。高校卒業以来、一度も会っていなかったが、前原さんと会うことを考えると、大城さんの胸は高鳴った。

前原さんは沖縄県宮古島の出身で、沖縄大学卒業後、フルブライト奨学生としてハワイ大学に留学。その後、南カリフォルニア大学(USC)で経営修士号を取得し、75年に前原アソシエーツを設立、経営コンサルタントとして活躍してきた。フラー神学校でも修士号を取得しており、牧師の資格もある。

大城さんは前原さんと会うため、すぐにロサンゼルスに飛んだ。そして前原さんと面会。その人柄に惚れた。沖縄でともにキリスト教に入会という結び付きもあった。「アメリカ進出は可能だ」。決断は早い。早速アメリカ支社の設立を思い立ち、カリフォルニア法人を開設した。前原さんを相談役にしての出発だった。

その2>>

*本稿は、長島幸和氏による編集です。

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今年の二世ウイーク女王ラニ・ニシヤマさん

南カリフォルニア日系最大のイベント「二世ウイーク・ジャパニーズ・フェスティバル」で女王に選出される女性たちには、日系としての誇りや自信をうかがうことができるが、今年の第70回二世ウイークで女王に選ばれたラニ・クメ・ニシヤマさん(24)は、祖父との深い「心の絆」を感じさせた女性として、多くの人の記憶に残ることだろう。

今年の二世ウイークは7月下旬に華々しく開幕、8月14日に女王選出の「コロネーション・ボウル」が催され、西ロサンゼルス日系市民協会(JACL)とベニス日系コミュニティーセンターの推薦を受けたニシヤマさんが7名の候補者の中から栄冠を獲得した。

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二世ウイーク女王選出までの過程は平坦な道ではない。居住区からの推薦を受けたあと、短期間のうちに日本文化の習得が求められる。大学での成績は優秀でなければならず、論文をまとめる力だけでなく、演説に長け、ユーモアに富み、人との巧みな接触が必須。容姿端麗はもちろん、着物姿の美しさなども要求される。

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そうした過程を経て女王に選ばれたニシヤマさん。趣味は、ピアノ演奏、歌、料理、陶芸、旅行、バレーボール、スノーボード、美術館めぐり、おいしいレストラン探しなど幅広く、目指している俳優業への要素に満ち溢れている。女王となる要素も十分だった。

ニシヤマさんはハワイ生まれ。幼少の頃LA近郊に移住し、USC(南カリフォルニア大学)を卒業後しばらく不動産業に携わったが、現在はウェイン・ドボーク俳優養成所に通い、映画俳優への訓練に余念がない。

そのニシヤマさんが、女王に選ばれて「忘れられない人」として話したのが、祖父ロバート・平良さん=2003年没、享年80=のことだった。平良さんは、沖縄県人会発展への功績で知られ、常に善意をもって他人に接した人だったが、ニシヤマさんは「そうした偉大な祖父がいなかったら、誰が今日の自分を想像できただろうか。女王に選出された姿を祖父に見せたかった」と涙した。

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祖父の平良さんは1923年、沖縄出身の両親を持ち、11人きょうだいの9番目として、ハワイのワイリア砂糖きび栽培地で生まれた。第二次世界大戦時に通訳として日本に出征。終戦後ハワイアン・ベーカリー料理学校で学び、26歳の時、友人から380ドルを借り、ハワイのヒロ市で一番目のベーカリーをオープン。「ポルトガル・スタイル」のスイート・ブレッドを作り、販売した。ビジネスは拡大の一途をたどり、その後ホノルル市に移転、32年前にカリフォルニアにも出店し、全米に販売網を拡大すると同時に、外国へも輸出するようになった。

平良さんは大学へは進まなかったが、一時ハワイ大学で講義を受け持ったこともある。北米沖縄県人会のメンバーとなり、県人会館建設資金に多大な資金援助をしたとして、県人会の比嘉朝儀会長(当時)から表彰を受けた。

平良さんは事業経営の才能を発揮し、家族運営の小規模ビジネスを世界的規模にまで発展させた。敬虔なキリスト教徒として人道主義にあふれ、家族を大事にし、多くの友人に恵まれ、慈善団体に多大な援助の手を差し伸べて来ただけに、平良さんが他界した際は、多くの人が彼の死を悼んだ。

当時17歳の高校生だったニシヤマさんは、ロサンゼルス近郊トーランス市のチャペルで行われた葬儀のことをよく憶えている。多くの人が参列し、式場に収容しきれない人は外に列を作っていた。同じ時期にハワイでも葬式が挙行された。

祖父の足跡を踏まえながら、ニシヤマさんは「日米親善大使として、カリフォルニアの日系行事に積極的に参加し、日系社会に貢献するよう努力したい」と抱負を語っている。

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二世ウイーク祭りは8月15日にはパレードがあり、ニシヤマさんは他の6名のプリンセスとともに、フロート(山車)に乗って登場。詰め掛けた沿道の人々の声援に手を振って笑顔で応えていた。

なお、パレードのグランド・マーシャルは菊地日出男さん、パレード・マーシャルは長洲未来さんが努めた。沖縄県人会芸能部も眞境名愛子部長を中心に部員30人が「パラダイス・ウルマジマ」音頭で行進した。特別ゲストでフロートに乗った美川憲一さんが「沖縄の衣装、とてもきれい」とほめていた。 

ちなみに、パレード・マーシャルをつとめた長洲さんは米国フィギヤスケート界期待の星で最も有名な一人。ロサンゼルス郊外のモンテベロで生まれ、スケートを始めたアーケディアで育った。今年のバンクーバー冬季オリンピックでは見事4位に。ソチ五輪優勝を目指し前進しているホープ15歳。父清人さんは茨城、母育子さんは長野出身でアーケーディアで寿司店を営んでいる。

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沖縄興南高校野球部の偉業

甲子園春夏連覇を制した者だけに与えられる深紅の大優勝旗が、今年海を越え、初めて沖縄に渡った。甲子園史上6校目の偉業を、沖縄興南高校が遂に成し遂げたのである。那覇空港には5,000名が出迎え、沖縄住民が歓喜に酔いしれた。戦後65年、苦難の道を歩んで来た沖縄の人々が「一つの夢の実現」に一ページをしるし、足跡を残した明記すべき日であった。 

沖縄興南高校の春夏甲子園制覇の興奮さめやらない9月上旬、同校から5人の選手が日本選抜代表としてアメリカを訪れた。日米親善高校野球に出場する興南の我喜屋優監督率いる日本選抜チームが31日にロサンゼルス入りした。

日米親善高校野球大会とは、日米インターナショナル・ハイスクール・ベースボール・ファンデーション、日米教育サポートセンターの共催で毎年行われている友好・親善試合である。夏の甲子園大会で最も活躍した選手の中から、日本高等学校野球連盟より選ばれた全日本選抜チームと米国選抜チームが対戦する。今年は、9月2、4、5、6日の4日間にわたってロサンゼルス市の隣接都市コンプトンのアーバン・ユース・アカデミー球場で行われた。

日本選抜チームは17人(一人病欠)、春夏を制した興南(沖縄)からは島袋洋奨投手、山川大輔捕手、真栄平大輝、国吉大陸、我如古盛次内野手の5名が選ばれていた。1校から5人も代表者が選抜されたのは史上最多という。

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8月31日に同野球場で歓迎レセプションが開かれ、日米野球関係者約100人が招待された。選手はホストファミリーの家庭で家族の一員と同様の生活をし、メジャーリーグの試合観戦(9月1日にLAドジャース対フィラデルフィア・フィリーズ、6日にはLAエンジェルスとクリーブランド・インディアンズの試合)、日本総領事館公邸への表敬訪問、観光なども体験しながら、4日間の試合に挑んだ。

「日本高野連は親善と教育が目的とうたっているが、実際はメジャーのスカウトが大勢参加しており、選手の力量を測り、将来の大リーガーを模索する大事なイベントである」と、日米教育サポート・センター木下和孝会長は語った。

「親善野球大会は51年前にアメリカ本土で初めて開始された。19年前に松井秀喜選手が参加して以来大きな盛り上がりを見せている」と日本高野連副会長の内海紀雄さんが挨拶。「ロサンゼルスに足を踏み入れるのは30年ぶり、全日本代表としてキューバ遠征の途中に立ち寄った。すばらしい環境で試合ができるのを光栄に思う」と我喜屋優興南及び全日本監督が歓迎レセプションで語った。

レセプション前に日本人選手はフィールドで直ちに練習を行い、その後にアメリカ選手が練習をしていた。「アメリカ人選手は大きくて、たくましいが、日本勢は技で行く」と我如古盛次興南選手は胸をはった。

4日、アーバンユース・アカデミーとの第一試合を観戦した。その日、興南選手の活躍で全日本は快勝した。

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試合終了後、私は思いがけない体験をした。1970から80年代にかけて、ドジャースとパドレスで19年間活躍、オールスターに10回選出、オールスターMVPに2回選出され、ナショナル・リーグMVPに輝いたスティーブ・ガービー元大リーガーと一緒に写真を撮る機会がもてたのだ。オールアメリカン、ミスター・クリーン、アイアンメン(鉄の男)などの愛称を持ち、1207試合連続出場で、メジャーリーグ史上第4位記録保持者として知られている。70年代後半にロン・セイ、ダスティー・ベイカー、ビル・ラッセル、デイビー・ロープスなどとドジャース黄金時代を築いたガービーさんは押しも押されぬ大スターであった。4日の始球式で試合開始のボールを投げた。彼の息子も試合に出場、9回裏で2ランホーマーを打った。

今彼は61歳、後髪も大分薄くなり、映画スターなみの二枚目イメージは遠く去ってしまった感はあるが、写真を撮ったときに私の肩に手をかけ、優しく微笑むガービーさんの気さくな志が忘れられない。少しうわずった声、ユーモアで誰にでも気軽に話しかける元大スターの面影は残っていると感じた。現在カリフォルニア州パームデザートに居を構え、「ガービー・コミュニケーションズ」と称するメディア情報の会社を持つ実業家として活躍している。

我々県人会員は「興南の偉業」を祝して、歓迎会を持つべきではないかと沖縄県人会比嘉朝儀会長に進言した。「そうしよう、あなたが世話役になってくれないか」と一つ返事が返ってきた。眞境名愛子芸能部長と3人が中心となって、準備に取り掛かった。おかげで当日の参加者は150人、県人会館収容オーバーで外にテーブルを設定した。メディアも新聞、テレビを含め6社8人が取材にきた。参加者に充分な食事をとエナジック社、上原旅行社などから金一封、藤本節子さんから果物や花などの寄贈があり、多くのボランティアの協力で歓迎会は成功した。

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その模様を琉球新報に記事として掲載した。更に「その記事が共同通信社と全国の新聞社47社で運営している『47NEWS』サイトでも、当銘貞夫北米通信員の署名入りで発信されています。私たちとしても誇らしい気持ちです」と琉球新報社高嶺朝一前社長がメールで知らせてきた。

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全日本代表の我喜屋優監督との出会いが印象深く残った。あるときは大胆で果敢に攻め、別の面でのきめの細かさ、鍛錬された選手の育成、チームワークの大切さ、選手の信頼感など万全の野球を見た。ガービーさんと我喜屋監督に共通性があるとすれば、それは、野球を愛し、野球で名を上げ、人間愛に満ち溢れた人としての人間観であろう。

戦後65年沖縄県民が夢見た「一つの偉業の達成」に、私もアメリカに住む一県系人として幸せな瞬間に酔いしれ、感涙にむせんだ一時であった。

全日程を通しパームスプリングス選抜との練習試合も含めて全日本が3勝1敗とオールアメリカンをくだした。 

 

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