Keiko Fukuda

Keiko Fukuda was born in Oita, Japan. After graduating from International Christian University, she worked for a publishing company. Fukuda moved to the United States in 1992 where she became the chief editor of a Japanese community magazine. In 2003, Fukuda started working as a freelance writer. She currently writes articles for both Japanese and U.S. magazines with a focus on interviews. Fukuda is the co-author of Nihon ni umarete (“Born in Japan”) published by Hankyu Communications. Website: https://angeleno.net 

Updated July 2020

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母国アメリカと戦った日系人たち その3: 兄弟で敵味方に分かれて戦う-阿久根三郎さん-

その2 (大森馨一さん)>>

阿久根三郎さんは1926年カリフォルニア州中部の生まれ。7歳の時に、兄弟と共に親の故郷、鹿児島へ渡る。母親が亡くなったので、鹿児島の祖母の 元で暮らすらめだった。9人兄弟の上から6番目。名前の三郎は3番目の男の子だったからだ。父親は子供たちを故郷に連れて帰ると、すぐに仕事をしにアメリ カに戻っていった。兄弟だけで残された日本では、日本語がわからないだけでなく、年より下の学年に入れられたことも原因となり苛められた。抵抗するため に、三郎少年は剣道を習い始める。自分と兄弟たちを守る手段だった。

戦争が始まる前、上の兄2人はアメリカに戻った。そしてアメリカ軍へと入隊した。三郎少年と弟は日本軍に志願した。自ら入隊の意志を表明したのであ る。「当時はアメリカからの仕送りもなくなったので、家族が生活していくのが大変な時代だった。兵隊に入れば家族のヘルプになるのでは、という気持ちから だった」ところが、アメリカ国籍のせいで最初は失格となる。その後、海軍の飛行兵としての試験を受けた時は、日本生まれと書いて合格した。彼の中には、幼 い頃から暮らした日本への忠誠心が芽生えていた。「軍でも、剣道や銃剣術を習っていたこともあり、上の方から随分可愛がってもらった」と阿久根さんは振り 返る。

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終戦を迎え、兄が進駐軍として日本にやって来た。再会した兄とは激しい言い合いになった。「僕は世界平和のために日本は戦争をしたのだと主張し、兄 は日本の幹部の連中の軍国主義のせいでこのような事態になったのだ、と譲らない。アメリカにいて、アメリカの生活をしている兄貴からすればアメリカの国に 忠誠を尽くすのは当然かもしれない。僕は日本にいて日本にお世話になってきた。だから、僕にとっての日本への忠誠もまた当然のことだった。兄貴の一人は米軍の情報部、一人は落下傘部隊だった。兄弟で敵味方に分かれていたわけで、もし直接に戦う場面があったとしても敵だと思って戦ったはず。当時はそういう覚悟だった」

戦後、阿久根さんは東京でアメリカ海軍の将校の家で運転手を務めていた。「兵隊をしていたので、戦後は仕事がなくなってしまった。しかし、米国市民 権も取られてしまっていたので、生まれた国に帰ることもできない。そんな時、雇ってくれた海軍の将校が、僕をアメリカに連れて帰りたいと言ってくれた」阿久根さんは戦前から戦後にかけての事情をその人に説明した。すると、アメリカの国会議員の協力を要請してくれ、市民権を取り戻せることになった。日本に残っていても生活が向上することはないと思った阿久根さんは、こうして渡米を決意したのだった。1953年のことだった。

「ところがサンフランシスコに着いて、先にアメリカに着いていた将校さんに電話すると、『ロサンゼルスに兄弟がいるならロサンゼルスに行け』と言わ れた。本当に偉い方だと思った。普通だったらビザの手配をしてくれたわけだから、すぐに俺の所に来て、その分だけ働いて返せ、と言うだろう。しかし、彼はそうしなくていい、と言ったのだ」阿久根さんはロサンゼルスに向かい、そこでまた兄と再会した。「終戦直後の激しい兄弟喧嘩が尾を引いて、当時は兄貴も僕のことをあまり信用していないように思えた。しかし、兄弟は今では仲良くやっている。兄貴は僕のことを大切にしてくれる。喧嘩のしこりはまったくない」

ロサンゼルスでは働きながら、ライフワークとして剣道を広めることに貢献した。そうすることで日本のイメージをアメリカで高められると信じたから だ。ところがあるきっかけで、日本への信頼の気持ちが揺らぐことになった。阿久根さんは、1945年8月3日、原爆が落ちた30分後の広島市に軍の命令で 入っていた。27年ぶりに訪れた日本では、広島の役所に赴き原爆手帳の申請を行った。しかし、役所からは「アメリカ国籍、しかも被爆の証拠がない」という 理由で却下されてしまったのだ。「命令で広島に行かせておきながら、そんな馬鹿なことがあるだろうか。こちらには海軍時代の履歴書まであるのに」と阿久根さんは憤りを露にした。

阿久根さんは自らの体験から世界の平和を心から望むと繰り返した。それは、兄弟が分かれて戦い、生まれた国の国籍をはく奪され、さらに国籍の差別によって被爆の現実までも否定されてしまった者の心からの叫びに聞こえた。アメリカに生まれたにもかかわらず、日本軍兵士として母国と戦い、さらに戦後も運命を翻弄された日系人たち。世界平和のために、彼らの経験を少しでも多くの人に知ってほしいと筆者は望む。

(終)

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母国アメリカと戦った日系人たち その2: 国籍を問わずに徴兵、中野学校への命令 -大森馨一さん-

その1 (小野正己さん) >>

小野さんに続いて話を聞いたのは、1917年カリフォルニア州ベンチュラ生まれの大森馨一(けいいち)さん。当時の二世の例に漏れず、大森さんも日本で教育を受けるために、10歳で両親の故郷である熊本へ。小学校を卒業して中学から大阪外語へ進学した。蒙古(モンゴル)語を専攻し、昭和15年 (1940年)に卒業し、政府機関に就職。赴任先のモンゴルへ向かった。そこで徴兵され、一旦日本へ帰国、久留米の第一戦車隊に入隊した。将校になるため の幹部候補生だった。

部隊ごと満州へ赴いた後、さらに戦線が厳しくなっていた南方に、輸送部隊の転属となり移動した。「連絡将校として大きな船に乗せられて、沖縄まで部隊を2回輸送した後、フィリピンのマニラに向かった。マニラ湾では爆撃を受けたが、船はゆっくりと沈んでいったので逃げる余裕があった。ラッキーだった。 船がやられたおかげでレイテ島にも行かずに済んだ。行っていたら全滅していたはず。船を沈ませてくれたアメリカの兵隊に感謝している」

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終戦は台湾で迎えた。昭和21年(1946年)に鹿児島港に着いたが、仕事探しでつまずいた。「将校だったから戦争に負けた日本では公職追放で仕事 に就けない。できることは闇商売くらい。それでアメリカに行きたいと思うようになった。日本政府から一時金をもらえると言うので、もらいに行ったら『お前はアメリカ人だからやらん』と言われる。兵隊にとる時はアメリカ市民だということに目をつぶっておいて、さんざん兵隊として使っておきながら、そういう酷 いことを平気で言う。そういう国におっても話にならんと思って、福岡のアメリカ領事館に行ってアメリカに戻りたいと訴えた」

当時の法律では、米国市民権は自動的には回復できないと領事に言われた大森さんは、アメリカ生まれであるという証拠を提出した上で待つことになっ た。数カ月待っても何の音沙汰もない。改めて領事館に行き、「最悪の事態として米国市民権を二度と回復できなくてもいいから、とにかく回復の申請をしてほ しい」と直訴した。

その熱意が領事に通じたのか、1955年、晴れてアメリカ市民権を取り戻すことができた。大森さんは、その鳥の12月31日に神戸港からアメリカ行きの船に乗った。

「日本で、すでに結婚していて子供も2人いた。3カ月後に飛行機で到着した家族とも合流して、ロサンゼルスに居を構えた。仕事は最初、アメリカの会社に入社し、その後、リトルトーキョーにカッパという店を持ち、その後ガーデナにも同じ名前のコーヒーショップを開店し、2000年までずっと働いていた」

大森さんは、戦時中、陸軍中野学校へ送り込まれる命令を受けていた。待機中にその命令が取り消され、結果的に中野学校へは行かずに済んだ。「中野学校のようなスパイ学校に入ると戸籍を消されると聞いた。無国籍の状態にしてスパイという任務に専念させるそうだ。しかし、私は幸いその任務から逃れることができた」

中野学校に送り込まれるはずがそうならず、レイテ島に行くはずがアメリカ軍の爆撃により妨げられた。いくつもの転機を経て、残された人生を家族と過ごす国として最終的にアメリカという国を選択したのだ。

現在の日本を、彼はどう見ているのだろうか。「私はアメリカに籍を置くことができて幸せだ。アメリカと日本を比べれば、アメリカの方がずっといい。大衆の考え方が常識に則っている。全世界の人類が集まっている国だからほんとはもっとめちゃくちゃでもおかしくない。しかし、筋が通っている。今の日本人には感謝をする気持ちがない。日本の教育に問題があるのだと思う。金持ちになり過ぎたのかもしれない」

アメリカ国籍を問わず徴兵しておいて、戦後は仕事に就く機会を奪われ、一時金も支給してくれなかったという日本。大森さんの日本への気持ちは屈折している。しかし、そんな中にも将来を憂う確かな愛国心が感じられた。

その3(阿久根三郎さん)>>

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母国アメリカと戦った日系人たち その1: 神風特攻隊と米軍兵士を経験—小野正己さん—

第二次大戦時、ヨーロッパで戦績を残した日系人部隊のことはよく知られている。日系人のみで編成された第442連隊は、ヨーロッパ戦線に投入され、 アメリカ合衆国の歴史上、最も多くの勲章を受けている。しかし、日本で教育を受けていた時に徴兵され、母国であるアメリカと戦うことになった日系人もまた数多くいた。名古屋市立大学院で日系米人の日本軍従軍について研究している門池啓史氏の調査によると、その数、実に千人とも二千人とも言われている。

今から3年前、筆者はロサンゼルス近郊に暮らす3人の元日本軍兵士の日系アメリカ人の話を聞くことができた。神風特攻隊の生き残りで朝鮮戦争では米軍に従軍した経験を持つ小野さん、満州とフィリピンの部隊に所属し終戦は台湾で迎えた大森さん、そして米軍兵士の兄と分かれ日本への忠誠を誓っていた阿久根さんである。

小野さんは1928年、カリフォルニア州ロサンゼルス近郊のホーソンに生まれた。最初にアメリカに来たのは小野さんの祖父、岡山の出身だった。小野さんの父親は最初、八百屋を経営した後、ウエストロサンゼルスで中華料理店を始めた。

当時は、日系人の子供の教育は日本で受けさせるという風潮があった。それで、小野さんと姉は1940年から岡山での生活を始めた。転入した日本の学校では、「お前はアメリカ人か、日本人か」と苛められたそうだ。

岡山県立第一商業学校の2年生の時に徴兵された。「行きたくないと言ったら、学校の先生にボコボコにされた。どうしても行きたくない、と1週間頑張ったが、途中で試験に落ちればいいのだと思いついた」。しかし、結果的に試験には受かってしまった。入隊したのは松山航空隊、神風特攻隊のひとつだっ た。

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「1944年の5月10日、B-29が編成を組んで何百機と飛んできた。防空壕の近くに爆弾を落とされた。後は人間魚雷だというので、志願者を募っ た。何十人も志願したのは驚いた。私は志願しなかった。その後、松山から呉に移動、1945年8月6日、B-29が3機だけ飛んできた。広島の方に飛んで 行った後、ピカッとフラッシュしたのが見えた。すぐにマッシュルームの雲が上がり、下の方はみるみる赤く染まっていった」

そして8月15日を迎えた。小野さんは隊に残り、後始末で1カ月ほど働いた。退職金として2千円支給された。当時の月給は50円から70円ほどだったというから大金である。

一方の、マンザナーに収容されていたアメリカの家族は、戦後、日本への帰国の道を選んだ。「親父がアメリカよりも日本を選んだのは、戦争前に投資したカネを詐欺で取られたり、せっかく財産を築いても収容所に放り込まれて没収されたりで、アメリカで成功しても何も自分の物にはならなかったという経験からだと思う」と小野さんは語る。帰国後、岡山で商売を始めた小野さんの父親は、市内に八百屋、漬物屋など6つもの商店を経営するまでになった。

小野さんは神戸の米軍の犯罪調査本部で通訳の職に就いていた。一貫してアメリカに帰りたいという意志を持ち続けていた小野さんは、朝鮮戦争が始まったのを契機に、領事館で米国市民権を回復し米軍に志願した。

「面接で『ユーはアメリカ市民か』と聞かれて『そうです』と答えると、「ウエルカム!」と晴れて入隊できた」。こうして、小野さんは22歳の時に、 再びアメリカ人になった。こうして、小野さんはアメリカ軍に入隊することで失効していた米国市民権を回復することができたのだった。

「日本軍との違いに驚いた。日本軍は何が何でも絶対服従。常に上官から殴られることを恐れていた。米軍ではそのような経験は一度もなかった」

しかし、病気にかかった小野さんはアメリカへ戻される。父親は日本で家業を継いでほしいと望んだが、彼は予科練時代の経験から「日本は下の人間が頑張っても潰される。アメリカはいいアイデアがあればトップまで行くことができる」という考えを持っていた。自らの意志でアメリカを選んだのだ。

大学卒業後、ロサンゼルスの日系商社を経て、ロサンゼルス港湾局を勤め上げた小野さん。「港湾局時代には、なぜかチノ空港に保管されてあったゼロ戦に乗ったことがある。予科練時代には乗ったことがなかったのに皮肉なものだ」

最後に次に生まれ変わるとしたら何人に生まれたいかと聞いてみた。

「日本に、日本人として生まれたい。僕がいた頃と今の日本は全然違う。当時の日本には何もなかった。それにしても、最近の日本のテレビドラマがまったく理解できない。現代の日本のドラマで見る日本人には大和魂が感じられない」

戦争に翻弄されて日本軍への入隊を余儀なくされた後、アメリカ人に戻る道を選択した小野さんだが、心の奥底には大和魂が静かに息づいていた。次回は大森さんの体験談をお届けする。

その2 (大森馨一さん)>>

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メンソーレ!沖縄 in U.S.A.

第7回 長寿を支える「ヌチグスイ」アメリカへの普及はかる

沖縄県観光商工部北米委託事務所
当銘由洋 (とうめ・よしひろ) さん / 沖縄生まれ新一世

沖縄には「ヌチグスイ」という言葉がある。沖縄の食材を、県からの委託で北米にプロモートしている当銘由洋さんは、「この言葉は、食べるものは健康にいいという沖縄の発想で、中国の『薬食同源』につながります。古くから沖縄の料理は養生食とも言われています」と解説。

当銘さんに、沖縄の人々の長寿を支える代表的な食材を紹介してもらった。

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「まず、ゴーヤ。体温を下げる働きがあるため、沖縄の人は夏にこの野菜を食べます。ビタミンC、カリウム、鉄分が豊富で、血糖値降下作用があり、夏 バテ防止にいいといわれる健康的な食材の代表格です。私もそうですが、沖縄出身者はこちらでもよく庭で栽培しています。日系、中国系のマーケット、朝市な どでも売っていますのでなじみがある人も多いでしょう」

ゴーヤ料理で一般的なのは、卵や豆腐、スパム、豚肉などと炒めるチャンプルーだ。

「続いて、もずく。ヌルヌルの成分に抗癌作用があるという研究結果も出ています。豊富なミネラル成分が特徴。最近は天麩羅やサラダにも使われます が、本来は三杯酢で食べることが多いですね。もずくは沖縄の特産品ですが、同じ海草でも、沖縄料理でよく使われる昆布は北海道産です。だしをとるのではな く、煮付けやソバに入れるなど食べるための食材です」

中国と交易が盛んだった頃には、沖縄経由で北海道の昆布を輸出していたそうだ。

「黒糖はサトウキビの汁を乾燥させて作ります。ミネラルが豊富でエネルギー源となります。沖縄のお年寄りは、寝る前にお茶と泡盛1杯、黒糖1かけらを食べて寝るのが習慣です」

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課題はデータ提供

また、血糖値降下や疲労回復作用もあるとして日本のテレビでも紹介された、沖縄自生の果物のシークヮーサーは、ジュースやドレッシングに形を変えて食卓に頻繁に登場する。

さらにウコン。「生姜科の野菜で根の部分を使うウコンは、粉末やタブレットに加工されます。お酒を飲む前にウコンを服用すると、肝臓への負担を軽減します」。最近ではウコンの粉末を練り込んだソバや麩も販売されている。

健康志向が高まるアメリカで、これらの県産品の普及に取り組んでいる当銘さんは「沖縄はせっかく良い素材を持っていてもマーケティングに弱いのが難点。課題はアメリカ企業を納得させられるだけのデータの提供です。産官学をつないで調査を進め、アメリカの食品業界に沖縄の健康食品を定着させていくのが ゴールです」と抱負を語る。

* 本稿はU.S. FrontLine January 2008 (3rd week) からの転載です。

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メンソーレ!沖縄 in U.S.A.

第6回 沖縄と本土の気質を融合しアメリカでビジネス展開中

FAMIMA! CORPORATION エグゼクティブ・バイスプレジデント
糸数剛一 (いとかずごういち) さん / 沖縄生まれの駐在員

全米展開を推進している日本生まれのコンビニエンスストア、FAMIMA! の糸数剛一さんは、沖縄ファミリーマートからの派遣駐在員。19年前に沖縄ファミリーマートに入社した当時、20店舗だった県内の出店数をその後200に まで広げた手腕を買われ、アメリカのFAMIMA! を立ち上げるため2007年1月にロサンゼルスに赴任してきた。

「4年ほど前に視察目的でロサンゼルスに滞在したことがあります。その時に、ロサンゼルスは沖縄の雰囲気に非常に似ているという印象を持ちました。 沖縄移民が多く住むのも納得できます。沖縄は米軍基地を中心にした街作りが行われているので、道路や建物の感じまで、西海岸のそれによく似ているんです。 私自身、ここに住んでもいいなとすぐに思いました。実は沖縄出身者の例に漏れず、私の親類がここには数えきれないほど住んでいるはずなんです」

1959年那覇市生まれ。子供の頃は、両親の上司はアメリカ人、日常生活に使う通貨はドル、そして日本本土へ行くにはパスポートが必要な時代だった。

父親の転勤に伴い、12歳で東京に引っ越した時は「まるで外国のよう。カルチャーショックを感じました。特に夕方、東京ではどの家でも魚を焼き始め る。沖縄には焼き魚を食べる習慣がなかったので、その匂いと煙に『火事だ』と母親と慌てたこともあります」と笑いながら、日本が異国だった当時を振り返 る。

やれば何とかなる

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子供の頃に沖縄で暮らし、その後東京で成長し、さらに大学卒業後に沖縄に戻って社会人生活を送った糸数さんは、「沖縄県民の『やれば何とかなる』という考え方と、本土の人の持つ几帳面さが融合すると、社会人として非常に素晴らしい特質につながる」と強調する。

「好きな言葉は『ナンクルナイサー』。人事を尽くして天命を待つ、という意味です。努力さえしていれば後は天に任せるだけという、沖縄人の前向きな 気質をよく表しています。それに深く考えずに思ったことをそのまま行動に移す点も素晴らしい。本土の人はその点、慎重過ぎる傾向がありますね」

糸数さん自身、FAMIMA! の米国展開にあたって、沖縄と本土の気質をバランスよく融合させて取り組んでいる。

「徹底的にマーケットリサーチを行う。ここは『日本的』な部分。実務面ではゴールに向かってまい進する点が沖縄的だといえるでしょう。アメリカ人と の会話でも物おじせずに知っている単語を並べます。言葉を変えたりしながら、とにかくしゃべり続ける。日本の中学校を出ていれば、基本的には語彙は足りて いるはずなんです。決して上手ではないけれど平気でしゃべれるのは、多分、沖縄的な気質がそうさせるのだと自己分析
しています」

沖縄でFAMIMA! を成功させた鍵は「ローカライゼーション」だったと糸数さんは断言する。「現地の人を雇用し、沖縄の食文化を取り入れた弁当を販売しました。それによって 本土から来たコンビニではなく自分たちのコンビニだと思ってもらえた。アメリカも同じです。アジア人と一部の日本好きなアメリカ人のための店というイメー ジから脱して、すべてのアメリカ人に受け入れられる店作りをしていくのが課題です。アメリカ
人の顧客を獲得した次のステップで、北米に多い沖縄出身者、また沖縄に興味のある人々を対象とした商材を開発していくことも視野に入れています」

FAMIMA! 店内で沖縄の商品を発見したら、アメリカ人へのブランド浸透というミッションが完遂した時だと思って間違いないようだ。

 

*本稿はU.S. FrontLine January 2008 (3rd week) からの転載です。

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