Keiko Fukuda

Keiko Fukuda was born in Oita, Japan. After graduating from International Christian University, she worked for a publishing company. Fukuda moved to the United States in 1992 where she became the chief editor of a Japanese community magazine. In 2003, Fukuda started working as a freelance writer. She currently writes articles for both Japanese and U.S. magazines with a focus on interviews. Fukuda is the co-author of Nihon ni umarete (“Born in Japan”) published by Hankyu Communications. Website: https://angeleno.net 

Updated July 2020

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難民として米国移住した日本人たち その4: 渡米2年で郷里に家が建った-小屋喜生さん-

>>その3 (西屋国弘さん)

ロサンゼルス郊外ノースリッジで引退生活を送る小屋さんは串木野市出身。1955年、難民移民枠を適用し、夫婦で渡米してきた。

串木野では、戦争中に落とされた爆弾で実家を焼失、一間のバラック家に家族と親戚10人で寝起きしていた。仕事は農業。グリーンハウスで野菜を育て ていた。しかし、急激なインフレ下でどんなに働いても暮らしは楽にならない。そんな時、市役所でアメリカ行きの話を耳にした。すぐにその話に飛びついた が、難民と認定されるまでに時間がかかった。しばらく待たされた後、ルース台風で農業が被害を受けたことで晴れて難民枠に入ることができた。

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小屋さんは他の移住者とは異なり、妻を伴って渡米した。目的地の西田キャンプでは、夫は農場で、妻はキッチンで働くことが決まっていたからだ。

「他のキャンプは大変な状況だったと聞いているが、西田キャンプの待遇は良かった。一部屋に二人ずつ入り、食事も恵まれていた。大きなテレビもあった。また、他のキャンプには農閑期があったが、西田では年間を通じて野菜を作っていた」

時給は1ドルだった。日本では日給が3百円、4百円という頃だ。アメリカでは時給で360円もらっていた計算になる。

2年働いた頃、送ったお金で鹿児島に立派な一軒家が建った。

3年と少しの間、夫婦揃って西田キャンプで働いた後、妻の姉が暮らすロサンゼルスへと移ってきた。仕事は見習いから始めた後、ビジネスを買い取って ガーデナーとして独り立ちした。20年経った頃、蓄えた資金でコインランドリーを始めたものの、経営に失敗。さらにレストラン経営にも手を付けた。しか し、それにも失敗し、多額の借金を作ってしまった。その借金を返済するために、再びガーデナーの仕事に戻ることになった。この経験で、小屋さんは、地道に働くことが一番確かだということを悟ったそうだ。

アメリカに移住して50年を超えた。「振り返ってみて思うのは、人生、失敗はしたが、好きなことができたということ。今は本当に満足している。鹿児 島で百姓を続けていたら、こうはいかなっただろう。渡米したことで、先祖代々の土地を手放すことになったことが、唯一の心残りだ」

元「難民」だった日本人移民たち。彼らはアメリカに渡る決断をしたことを誰一人後悔はしていなかった。「アメリカに来たことで人生が変わった」と口を揃える。どんな時代でも、チャンスが目の前に来た時に行動を起こした物だけが転機を作ることができる。そういう意味でも、彼らにチャンスを与えた内田善一郎は、真の意味での「ヒーロー」だと言える。

内田自身もアメリカへと移住し、北カリフォルニアのサリナスで長年農業に従事していた。彼の人生は、南日本新聞社より先ほど発刊された「カリフォルニア移民の父—内田善一郎伝」に詳しい。

(終)

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難民として米国移住した日本人たち その3: 努力すれば報われる国-西屋国弘さん-

その2(宮内武幸さん)>>

ロサンゼルス空港に近いウェストチェスター在住の西屋さんは、構造設計が専門である。彼もまた難民として渡米してきた一人である。

西屋さんは鹿児島県串木野市の出身。小学校を出るとすぐに日本通運の事務所に就職した。「同じ事務所で、旧制中学を出た人と同じ仕事をしていても、学歴から来る差別がある。それが嫌だった」。そんな時、農業研修生としてアメリカを見てきた内田善一郎さんから「アメリカは素晴らしい国だ」という話を聞かされた。どんどん夢が膨らんだ。自分もアメリカに行けば将来を変えることができると思えた。

申請する少し前に鹿児島にデラ台風が上陸した。その災害が適用されて難民救済法で渡米できることになった。1956年のことだった。西屋さんは早くに父親を亡くし、母一人子一人だったが、母は「お前の将来にかかわることだから好きなようにしなさい」と背中を押してくれた。

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西屋さんが向かったのはメルスビューという名のキャンプだった。サンフランシスコ空港からの道すがら、巨大なフォークリフトが幾台も捨ててある光景は衝撃だった。「日本は凄い国に戦争を仕掛けておったんだなあと思った」

さらにショックだったのはメルスビューで目にしたバラック小屋だった。「日本では華やかに送り出されたのに、辿り着いた場所がバラック…」。しかも 西屋さんは農業の経験がなかった。それでも時給90セントは当時の日本から来た者にしてみれば高給だった。周囲には何もないので、お金を使うこともない。給料のほとんどを日本へ送金した。

農場で働く約束は3年だったが、2年経った頃、西屋さんは串木野の後輩とサンフランシスコへと向かった。そのまま戻らなかった。

「日本にいる時から英語を独学で勉強していたのに、農園の中は日本人だけ。全然英語を使う機会も学ぶ機会もない。これではいかんと思った」

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やがてロサンゼルスに行けばガーデナーとして稼げるという情報を得て、西屋さんは南カリフォルニアへとやって来た。白人の家に住み込んでロサンゼルスシティー・コミュニティーカレッジに通い、建築を学んだ。日本から妻を迎えた後、アリゾナの大学に入学。ガーデナーの仕事を現地で続けた。卒業後、ロサ ンゼルスの設計事務所に就職し、1999年に独立した。

最後に「アメリカは何をくれたか」という問いを投げ掛けた。西屋さんの答えは「アメリカという国は、自分でやったことがすべて自分に返ってくる。やればやっただけ報われる国。ここで教育を受けたことで、今の私がある」というものだった。

日本では小学校を出ただけの青年が、海を渡り、農業で苦労した末に、大学を卒業し専門職に就いた。努力をすればアメリカの扉は開かれるのだということを、自ら実証した人生だと言えるだろう。

その4 (小屋喜生さん)>>

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No art form is more creative than Sōgetsu: Haruko Takeichi

Discovering a new world by diving into materials

It was 1980 when Haruko Takeichi, an interior designer at a designing studio run by her husband in Alhambra, California, entered the Sōgetsu school of Ikebana. Drawn by the refreshing use of live flowers in designing, she has since been involved in both Sōgetsu and her interior designing work for 28 years.

After receiving her license to teach as a grandmaster, she promptly began teaching in both Japanese and English. “In any country, most of the people who want to learn ikebana seem to be studying something related to art. Ceramics, painting, …

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難民として米国移住した日本人たち その2: 日航機が太平洋就航した年に渡米-宮内武幸さん-

その1 (難民移民誕生の経緯)>> 

難民救済法によって渡米してきた鹿児島県出身者は約300名。その中の1名が、日置郡出身、現在はモントレーパークに暮らす宮内武幸さんだ。鹿児島 では狭い土地を切り開く開拓農業に従事していた宮内さんにとって、広大なアメリカの大地での就労は願ってもないチャンスに思えた。そして、1955年10月、日本航空が初めて太平洋線を就航させた年に、宮内さんは日航機で海を渡った。

彼の目的地はサンフランシスコの内陸にあるデラノキャンプ。人手が必要なブドウの収穫期を前に、1日でも早く着くようにと、経営者が飛行機代を立て替えてくれたと言う。当時のお金で750ドルだった。

「日本では役場の日当が285円。1ドル360円の時代。つまり、飛行機代の750ドルは、2年以上の年収に相当する金額だった」

飛行機はハワイに立ち寄った後、サンフランシスコ空港に到着した。空港にはデラノキャンプの経営者である川崎常楠さんの息子が迎えに来てくれていた。夜の10時に、彼が運転するステーションワゴンに乗り込み、デラノのキャンプに到着したのは朝方だった。「何もない所だった。果てしなく続くブドウ園 に、ぽつんと貨車が並べられていた」。その貨車が、農場の就労者たちの寝泊まりする宿舎だった。

永住権をスポンサーしてもらうかわりに、デラノに住み込んで3年働くというのが提示された条件だった。当時のカリフォルニア州の最低賃金は75セントだったが、手先が器用な日本人には特別に時給95セント払ってくれた。しかも、ブドウを摘む仕事では、時給は1ドル5セントに跳ね上がった。

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「2月から4月の間は仕事がなくなる。それでも1日2ドルの宿泊費は川崎さんに払わないといけない。私は川崎さんにお願いして、ブドウの仕事がない間、ロサンゼルスに出て働くことにした。ガーデナーのヘルプをして、1日15ドルの収入。きつい仕事だったが、農業の経験があったので大丈夫だった」

宮内さんは、渡米する前に結婚していた。渡米は独身が条件だったが、妻を呼び寄せたいと思うようになった宮内さんは、約束の3年より少し早くデラノを出ることにした。川崎さんはそこまで就労者を拘束することはしなかったようだ。

デラノを去った宮内さんは、土地勘のあるロサンゼルスで妻と生活を始めた。仕事はガーデナーと七面鳥のヒナの鑑別士。さらに株の仕事にも従事した。

1962年に家族で一時帰国した時は、旅費だけで2千ドルかかった。今から40年以上前の2千ドルである。さらに日本では半年間、仕事をしないで滞在できたということだ。

「川崎さんには働いていた皆で集まってギフトを贈り、また、勲六等瑞宝章をもらえるように運動もした。中には、ひどい施設に寝泊まりさせて、仕事もないのに呼び寄せたと、川崎さんのことを言った人もいた。しかし、そういう人は被害者意識が強いとしか思えない。また、内田さんは恩人であり、移住者にとってのヒーローである。第二次大戦中にニューギニアで助かった命だからと、戦後は人のために生きていこうという強い意志で、さまざまなことに取り組んで いた」

永住権のスポンサーをしてくれた農場主の川崎さん、そして渡米のきっかけを作り尽力してくれた内田善一郎さんへの感謝の気持ちを、宮内さんはかたときも忘れたことはない。

その3(西屋国弘さん)>>

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難民として米国移住した日本人たち その1: 難民移民誕生の経緯

「難民救済法」という移民法を聞いたことがあるだろうか。1953年に施行されたこの法律を適用して渡米してきた日本人がいる。日本人が難民?誰し もそう思うに違いない。しかし、50年以上前に渡米した日本人難民たちは、カリフォルニアの農園での就労を経て、このアメリカにしっかり根を下ろしている のだ。

事の起こりは、戦後のサンフランシスコ講和条約の締結だった。条約の内容には、日本から先進国アメリカに研修生を送る条項が含まれていた。日本の各県より1名ずつ農業従事者が派遣された。その時、鹿児島県を代表して渡米したのが、串木野の市会議員、内田善一郎だった。

内田は豊かな農業州であるカリフォルニアの風景に、深い感銘を受けた。自分が得た知識を日本で披露するだけではもったいないと考えた内田は、自分以 外の若者を少しでも多くカリフォルニアに派遣させたいと望んだ。そして、ある農園から25人の日本人を受け入れる約束を取り付けた。

鹿児島に戻った内田は、人々にカリフォルニア農業の素晴らしさを語った。しかし、いかにして渡米希望者をアメリカに送り込むか、その手段が見つから なかった。調べていく中で、アメリカに「難民救済法」という法律があることを知った。これは難民21万4千人の枠を設け、以下のように定めたものだった。

「迫害もしくは迫害されるという脅威、天災、または軍事行動のため、自身の平常居住する地を離れ、その地に帰れずに再定住ができず、生計のため、あるいは輸送のために緊急の援助を必要とする者で、共産主義者でなく、また共産主義者の支配する国あるいは地域にいない者」

内田は「天災」という部分に目をつけた。台風を始めとする自然災害の被災者としてなら、日本人をアメリカに送り込める、と。難民受け入れ枠にはアジアの3千人が含まれることがわかった。この枠を獲得するにあたっては、日系米国人市民連合のマイク正岡が貢献していた。

しかし、他のアジアからの移民に先を越されてはもともこもない。難民として永住権を取得するには、米国市民のスポンサーが必須となる。内田は永住を希望している人数に対応するため、カリフォルニア各地の農園にスポンサー支援要請の手紙を書き送った。結果的に14の農園が永住権スポンサーを承諾した。

実際に申請を開始すると、米国政府は彼らが実際に天災で住居を失った難民かどうかを確認するために、係官を日本各地に派遣した。調査官に貧しいイ メージをアピールするために、炭焼き小屋が自分の家だと説明した申請者もいたそうだ。大卒の学歴を中卒だと偽る者もいた。各自がアメリカ移住を夢見て必死 に「難民」を演出したのだ。

調査の結果、申請が認可された人々は次々と太平洋を渡っていった。内田の出身県である鹿児島からの移住者は1955年から1956年にかけて渡航、その数は最終的に3百名にものぼった。彼らはアメリカでの農業を実体験し、やがては故郷に錦を飾ることを夢見ていた。しかし、その多くがアメリカを定住の地として選ぶこととなる。

次回から、難民として米国移住してきた3名の人生をご紹介する。(文中敬称略)

その2(宮内武幸さん)>>

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